兄さんが、どうやら斎藤一と喧嘩をしたらしい。

喧嘩初日は、やけに元気がなかった。あの兄さんが、だ!どれだけ病院の人間に辛辣な言葉を投げかけられようが、裏切られようが、利用されようが、わずかばかりの傷も許さなかった兄さんが――今はまるで親に叱られた子どもみたいだ。
いや、叱られた、とかじゃないか…“かけっこで一等賞をとれなかった子ども”みたい――というか、…うまい例えがみつからないけど…。
そういう、“自分に自信を持てなくなる”タイプの落ち込み方を、僕の兄はしているようだった。
とにかく大きな衝撃を受けたようで、始終ぼーっとしている。

当然のことだけれど、もちろんこのような事態、この僕が何も思わないはずもない。
僕の大好きな兄さんに何をするのだと、怒り狂うのは簡単だ。けれど僕は二人の間にどういう経緯があって、どういう喧嘩が勃発しているのかを、よく知らない――まあ、それでもどちらの味方をするべきかは、考えるべくもないことなのだが。

正直なところ、まあ、なんだ。
僕は、僕の兄さんと斎藤一が不仲になるような事態は大歓迎なのである。
むろん、大好きな兄を傷つけた斎藤一のことは大嫌いだ。胸ぐらをつかみあげて詰ってやりたい。
兄さんを傷つける奴は、どんな理由があっても許すわけにはいかないのだ。
………そう、どんな理由があっても許さない。
僕は、斎藤一に、怒っているのだ。

怒って、いるのだ。
たぶん、怒れていると思う。




「(あああ、でも、しょんぼりしてる兄さん超可愛い…!)」

でもまあ、それはそれ、これはこれ。正直に言う。
僕は内心ものすごくキュンキュンしていた。
だって本当に可愛いんだよ!いつも強気で、余裕ありげで、こちらをおちょくることが大好きな兄が――今はそれどころじゃないようで。

「………」

元気のない、口数の少ない兄さんは、ここのところずっと、僕の傍を離れようとしない。前までは斎藤一と一緒にお昼寝していたのに、その時間を全部、僕にくれる。…きっと勇気が出ないのだろう。たとえば少し病院内を移動する時でも、一人きりで斎藤一に出会うのが怖いから、僕の後ろにいる。
いつもより三割増し素直で、甘えんぼで、僕が離れようとすると慌てた様子を見せる。
それくらい弱っているのだ。だから僕に甘えてくれる。
可愛すぎてにこにこしちゃう僕は、今日も甘えんぼな兄さんの隣で、その体を抱きしめていた。

「そんなに気に病んでいるなら、僕があいつに言ってきてやろうか?斎藤一のくせに僕の兄さんに逆らうなんて生意気だ、さっさと仲直りしろ、って」
「いいよ。僕が悪いし…斎藤くんが怒るのはもっともだから、怒らせてあげて」
「ふうん。いいの?このままずっと喧嘩したままで」

もちろん僕としては、今の現状は願ってもないんだけど…。
兄は、うつむいて、ちょっぴり唇をかみしめた。

「このままでいい、とは言わないけど…」

ごにょごにょと言う。
ふーん、つまり、“どうしたらいいのかわからない”…ってことかな?

「ああ、そう言えば兄さんは、土方さんとも喧嘩したことなかったけ」

そうかそうか。
僕は、珍しく自分が兄にアドバイスできるという境遇に少しだけ優越感――のようなもの、を感じつつ、続けた。

「大丈夫だよ、簡単簡単」
「簡単?」
「うん。だって、ごめんなさい、って言うだけだから」
「ごめんなさい?謝れってこと?」
「そうそう。土方さんもそう言ってたよ?悪かったなって思うなら、ごめんなさいって言えばいいんだって。何も悪いと思わないなら、もちろんそんなこと言う必要はないけどね。…というか僕の兄さんがあいつに謝るなんて、なんか若干腹立たしいから言わなくていいと思うけど」

謝るなら、向こうから謝ればいいんだ。あいつは少なからず兄さんを傷つけた。
どんな理由があろうとも、兄を傷つけるなんて許せない。
……。

「というか、何で喧嘩になったの?」

そうだ、そもそも僕は、その原因すら知らないんだ。首を傾けて聞くと、兄は何やらやましいことでもあるようで、ほんの少しだけ戸惑った。

「別に大したことじゃないと思うんだけどな…僕が我儘言ったから、怒っちゃったみたいで」
「何それ」
「…いや、うん。僕が悪いんだろうけど…詳細は秘密」
「あいつ、兄さんに我儘言ってもらえるなんて、それがどれだけ光栄なことかわかってないね。ぐだぐだ言わずに黙って兄さんに尽くしていればいいのに!」

なんだそれ。兄さんの我儘なんて――そんな羨ましいものを。ずるい。

「兄さんの我儘なんて、それこそ相手が僕だったら、絶対嬉しいことなのにな。だからあいつは駄目なんだよ。土方さんだったら絶対そんなことしないと思うけどな」

うん。やっぱり兄は、土方さんと結ばれるべきだ。そう確信を深めながら、…僕は同時に、癪だけど斎藤一のことを思った。


ああ見えて根性だけはあるし、…以前に会話した時の、“沖田総司”の幸せを願う気持ちは本物だと思ってた。
そんな斎藤一が、我儘を言われた程度のことで、そんなに怒るものだろうか…?
まあ、兄だけが過剰に反応して、大げさにとらえているということもあり得るだろうけど――

「(兄さんも僕も、なんだかんだで、“友達”なんて作ったことがないからなあ。土方さんはもうほとんど親代わり、っていうか、身内って感じだし…距離感に戸惑うのは、まあ、わからないでもないか)」

深く考えることはやめにして、僕は兄の手を握った。

「大丈夫だよ、あんなやついなくったって、僕が兄さんの傍にいるし――兄さんのこと守ってあげるから」
「………」

しょんぼりと兄は首を落として、「うん」と小さく言った。

「…でもずっとこのままは、嫌だから。頑張って、謝ってみる…」
「そう?」

僕は別にこのままでもいいんだけどな。しょんぼりしてる兄さんが僕に甘えてくれるのは、ものすごく、嬉しいし。
…でもまあ、うん。
ここのところ、外へ出ていく準備として、僕と土方さんとで病院側と交渉することも増えた。部屋を出ることが身体への負担になる兄を置いて、しばらく外に出ていくこともあるだろう。そういう時、一人では眠ることができない兄の傍にいてくれる人は、必要かもしれない――

「(ものっすごく癪だけど。兄さんを眠らせてくれるのは、ありがたいし)」

複雑な心境だ。仲直りしてほしいような、欲しくないような。
考え込んでいたら、兄が僕の袖を、きゅっと軽く引っ張った。

「一緒に来て?」

弱ったような瞳に縋るような仕草。まったくもって物凄い破壊力である。
僕が断れるわけないじゃないか。

「いいよ。あいつと仲直りなんて、別にしなくてもいいとは思うけど…兄さんがそう言うなら、協力してあげる」





† † †





そう言う訳で、一大決心をしたらしい兄さんと、もうどーなってもいいや、くらいの軽い気持ちの僕とで、二人で斎藤一の部屋まで行くことになった。
冷たい廊下を、兄を気遣いながら行く。

「(…本当なら、兄さんに、あまりこの空気を吸わせたくはないんだけど…)」

今日は身体の調子も大丈夫そうだから、まあ、いいだろう。たまには外界に触れることも大事だって、土方さんも言っていたし――

「ん?」

そんなことを考えていたら、廊下の向こうから、歩いてくる人影があった。
偶然にも土方さんだ。

「あれ?土方さんだ。どうしたんですか、珍しいですねこんなところで」
「珍しいも何もねえだろ、こっちは仕事だ。お前らこそ何やってんだよ、茶色い総司まで引っ張ってきて――身体は大丈夫なのか」

元気のない兄は、曖昧な笑いのまま「大丈夫です」とゆるく返した。土方さんは何気なく兄さんの顔を覗き込んで、何気なく頭を撫でて、

「…熱は無いみてえだな」

とだけ、言う。なんだかものすごく微妙な顔になった兄さんは、ほんの少し動揺したようで、それとなく土方さんから顔を背けた。

――気持ちはわかる。
土方さんって、こう見えて結構タラシ属性があって――無自覚に触れてきたり顔を近づけたりするものだから、ちょっとドキマギしちゃうんだよね。無駄に顔だけは良いし。

「それはどうもお疲れ様です。僕らはこれから斎藤くんの部屋に行くんですよ」
「斎藤の?…茶色いのはいつものことだが、もしかしてお前もか?」
「ええ、まあ」
「何しに行くんだよ」
「喧嘩の仲立ちっていうのかな」
「喧嘩ぁ?」
「うん」

どうだ、僕は兄さんの役に立っているのだ――そう胸を張る僕を、土方さんはものすごーく呆れたような目で見た。

「どうせお前が斎藤に無茶言ったんだろ」
「僕が喧嘩してるんじゃないですよ、失礼だなあ。喧嘩してるのは、兄さんとあいつですよ」
「はあ?」

土方さんは、兄さんをまじまじと見つめる。兄さんは…今度はちょっと顔を俯けてしまった。
うん。やっぱり、いつもより少し元気がない。

「(しおれてる兄さんも可愛いなあ…)」

僕は、不安げな兄の手を握った。するとちょっと驚いたような顔をしてから、きゅう、と、兄さんも握り返してくれる。
土方さんにすら見せない、兄のこのささやかな信頼の仕草が、僕はとても嬉しい。

「喧嘩って何だ。お前はともかく、兄の方は斎藤と仲いいだろ?」
「斎藤一が兄さんの我儘を聞かなくて、それで怒ったらしいですよ。まったくいいご身分ですよね、斎藤一のくせに僕の大事な兄さんの――」
「ああわかったわかった、お前はちょっと黙ってろ」

土方さんは、つっけんどんに言う。
邪険にされて、ちょっとムッとするけど――土方さんは僕にはいつもこうだ。
兄さんには優しいくせに、僕にはあけすけにモノを言う。…好きな子は大事にするってことなんだろうけど…だから仕方ないんだけど、やっぱりちょっと、寂しいような、つまらないような。
まあ、いいけどさ。
僕は、兄さんを守るだけだ。

「黙ってろって何なんですか」
「喧嘩の仲立ちなんて必要ねえよ。むしろ第三者が入ると余計にややこしくなるもんだ。喧嘩にも作法ってもんがあるからな」
「作法?」
「どうせお前のことだ、高圧的な態度で斎藤んとこ押し掛けて、わーわー喚いて余計に場をややこしくさせるだけだろう。だったらついて行かない方がいい」
「はあ?なんで?」
「喧嘩してるのが兄の方なら、自分で謝罪の意を伝えないと仲直りなんてできねえよ。誰かに代弁してもらった誠意なんて、まるで意味がないだろうが」
「でも不安そうにしてる兄さんを独りにする訳にいかないし。傍にいるだけならいいでしょ」
「お前だぞ?俺は傍にいるだけですむとは思わねえ。どうせ我慢できなくて兄をかばうだろう」

む、何それ。酷い言い草だ。

「僕はそんなにでしゃばりじゃないです!」
「でしゃばりだろうが。兄のことに関してお前が大人しくできた例がねえ。いっつも前に出てきて、自分もヘロヘロなくせに無理にでかばおうとしやがって…いい加減に独り立ちしろこの兄馬鹿」
「何それ、むっかつく…!だいたい、いっつも前に出てきて無理にでもかばおうとするのは土方さんの方じゃないですか?!いつもいつも僕らの代わりに矢面に立ってさ。過保護だし、甘いし、…か、感謝はしてますけど、そういう土方さんに僕のことをどうこう言う資格はないと思います!」
「俺は必要だから前に立ってるだけだ。お前のそれと一緒にするな」
「違わないですよ。現に今も、兄さんはこんなに弱ってる」
「この頑固者が…」

吐き捨てるように言われた。僕は半眼で睨み返す。

「土方さんにだけは言われたくないですね」
「……」
「………」

が。睨み合う僕と土方さんをどう思ったのか、兄さんは――決意したかのように、低い声でこう言った。



「ん…土方さんの言うこともわかるから、いいよ。やっぱり僕一人で、いく」

僕はすぐさまかみつく。

「こんな弱ってる状態の兄さんを独りで?!駄目だよそんなの!斎藤一に言いくるめられたらどうするの!」
「言いくるめられるって…喧嘩しに行くんじゃないんだから」
「やだ。やだやだやだ!僕も行く!」
「………ううん。やっぱり、僕は、一人でいく。一人で…斎藤くんに、ちゃんとごめんって言うから」

このまま兄さんを独りで行かせたら――なんだか、ものすごく、嫌な予感がしてきた。
さっきまではどうでもいいって思ってたんだけど、兄さんの目がさっきよりも大いに切羽詰っていて、なんだか。
…何だか、この状態の兄を、斎藤一にあわせちゃいけない気がしたんだ。
完全に意固地になった僕を見て、兄さんは不思議な目配せをして、土方さんを見た。土方さんも大げさなため息をついて、それから、ぐいと僕の腕を引っ張る。

「いっつ…何するんですか土方さん!」
「いいから、お前は俺と来い。これ以上話をややこしくするな」
「そうやって余裕なそぶり見せてていいんですか、本当に兄さんが斎藤一とくっついちゃったら、土方さんあとで絶対後悔する…って、わ、ちょっと!人の話は最後まで…!」
「いいから黙ってついて来い。ココアでも何でも淹れてやるから」

羅刹であるはずの僕なのに、手加減を知らないこの人は遠慮なく全力で僕を抑えにかかって、ずるずると引っ張った。

「(兄さんには絶対にこんな乱暴な扱いしないくせに!…もう、容赦ないんだから…!)」

僕は強引な土方さんにちょっとびっくりしながら、ずるずると引きずられる。
あんなに硬く握っていた兄さんの手が、…するりと。

あっけなく、離れた。

それが何故だかひどく嫌で、怖くて、僕はジタバタと暴れる。

「ちょっと、やだ、土方さん…!」
「我儘言うな、お前の兄が決めたことだろう。黙って従え」
「やだ!やだやだやだ!僕も兄さんと一緒がいい、僕も、…僕だけ留守番なんて嫌だ…!」
「あいつらが仲直りするまでの短い時間だろ、あいつはお前の所に帰ってくるよ」

そんな保証はどこにもないじゃないか。兄さんが斎藤一のところに行っちゃったら。
僕の所に、帰ってこなかったら?

「…う、ううー…!」
「だから、いい加減に兄離れしろっつってんだろ。お前らは本当にガキだな」

土方さんは呆れたようにそう言って、兄さんを振り返る。兄さんは、にっこりと、実に綺麗な笑顔を見せてくれた。

「大丈夫だよ、すぐ終わらせてくる。だから土方さんと待ってて」

そうして、意を決したように背を向ける。
もう、僕のことなんて振り返りもせずに、兄さんは角を曲がって――その姿が見えなくなった。






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