弟が暴走し、その騒ぎが収まって、それなりの月日が流れた。
土方さんはより病院の中で権力を握り、僕らの存在を守るための力を蓄えている。おかげでここ最近は実験の頻度や身体にかかる負荷が減り、僕らはずいぶん、過ごしやすくなった。
「(…まあ、理由は土方さんが偉くなったからって、それだけじゃないんだろうけど…)」
ただの人間であるところの“僕”の身体が弱ってきているから、というのが、本当の理由だろう。
死なせてしまっては実験も立ち行かないから、ここにきて妙な気を回したものだ。
サンプルが少ないって大変だ。まあ、もちろんこちらとしては願ってもないことなのだが――
病院側が僕らの束縛を緩めた、という事実がもたらしたものは大きい。
ほんの少し余裕ができてから、僕らの世界も少しずつ、変わろうとしていた。
この病院から出ていくための準備は着々と進んでいる。
普通じゃなかったことが当たり前になりつつある、っていうのは、なんだか不思議な感覚だ。
あれから、斎藤くんは当たり前みたいな顔をしてずっと僕の傍にいる。弟ともたまにじゃれてるけど、それでも基本的には、僕のお守りをしていることが多かった。
一人では昼寝も満足にできない僕の傍にいて、柔らかい眠りをくれて。
…ほんとう、それだけのために、文句も言わずにそこにいてくれて。
彼がいる日常を“当たり前”に思う実感が、ようやく馴染んできた頃合い――僕は、自然と彼のことを考えることが多くなった。
土方さんが彼をどうしてここに呼んだのか、…それが僕にはわからない。けれど、まあ、あの人のことだ。何らかの意図があるんだろう。
「(さいとう、はじめ…くん)」
不思議な人だ。この僕が、彼の前では甘えたくて仕方なくなってしまうのだから。
それに初めて出会ったときから、初めて会うみたいな気がしなかった。
僕らのことなんてほとんど知らないはずなのに、僕のことを好きだなんて言う。僕のことを見ていられないのだと。
彼は、ものすごく優しい人なんだ。
正義感も強くて、曲がったことが嫌いで、生真面目な人。
…ああ、少し土方さんに似ているのかな…?甘えたくなるのはそのせいかもしれない。
しかも、あろうことか彼は“僕に恋をしている”という。
僕は一生、誰とも恋愛をしないと決めているのに。
「(早めに、解放してあげた方がいいんだろうな)」
かといって弟を差し出すつもりも当然ない僕は、ここで一つ、計画を練ることにしたのだった――
弟は土方さんのところで精密検査中、しばらくは帰ってこない。
そんな時分に僕は斎藤くんを呼び出した。
話があるから、と。
「…そういえば、話があると言っていたな。どうした?」
斎藤くんは少し意外そうな顔で部屋に来て、いつも通り僕の話し相手をしてくれた後に、藪から棒にそう言いだした。
こほん、と小さく咳払いをする。
「うん。あのさ、斎藤くん」
「ああ。どうした」
「僕とセックスしてくれないかな」
「――――」
斎藤くんはわかりやすいくらい目を大きく広げて僕を見た。ほんとうにわかりやすい。
僕はためらわずに、露出の少ない彼の、わずかに晒された肌に触れる。
緊張はしなかった。
…ずいぶん前から考えていたことなんだ。こうして彼を誘うのは。
「ん…ね、触って?」
僕は斎藤くんを横目にするすると上着を脱ぐ。
下着は…つけてない。
肩からするりとパジャマのような服を脱げば、もうその下には何も身に着けない生身の肌だ――
「生憎だがお断りする」
けれど、斎藤くんは即座に低い声でそう言うと、僕の服をずりあげた。
そしてすり寄ろうとする僕の身体を引き離す。
誘う準備は万端で、お風呂にだって入って、下着も脱いだ状態の――まあパジャマだから服は色っぽくないけどどうせ脱いじゃえば一緒だしね――据え膳丸出しの僕を、いともあっさりと、だ。
流石だ、と、僕は内心で彼を誉める。堅物、って言うか…なんていうか。
まあ、想定の範囲内だ。
僕はゆっくり意図的に唇を曲げて、吐息を混ぜた声で聞き返した。
「…どうして?」
「どうしても何も、こういう行為はあんたの身体に負担をかける。それに好いた者同士が行うことだろう」
「大丈夫だよ?僕ほぼ毎晩弟に抱いてもらってるんだし、慣れてるから。…セックスは恋人同士が行うものって考え自体が古いけど、それにしてもまあ、僕と君はフリとはいえ恋人なんだから、問題ないんじゃないの」
「何も良くないだろう」
「僕のこと好きって言ったのに、抱きたくはない?」
「――あんたは悪趣味だ」
「なあんだ。やっぱり抱きたいんじゃない」
それを聞いて安心した。僕はくすくすと笑う。
「やりたいなら、やっちゃえばいいんだよ。僕がいいって言ってるんだし。弟は怒るかもしれないけどさ、…僕が君のこと、守ってあげる」
「………」
「僕、君のことを気に入ってるんだ。君ならいいかなって」
「…それで、本心は?」
斎藤くんは、探るみたいな目で僕を見上げる。
どうせ何かたくらみがあるのだろう、と、言外に匂わせるような、甘さなどまるで感じさせない声だ。
やはり彼は、とても頭がいい。
僕が単なる色ボケで彼を誘っているわけではないと、きっとすぐに見破ってしまったのだろう。
「うん。つまりね、僕の身体ならいくらでもあげるから、心の方は諦めて欲しいってことなんだ」
「………。何故?」
「僕は恋ができない体質だから」
――そうだ。
あの日、自分の恋心を僕は殺した。だから少しでも恋心に近い気持ちが動くと、勝手に心にセーブがかかる。
気持ちを殺そうと、余計に苦しくなる。その前に、そういうものとして割り切ってしまいたいんだ。
斎藤くんのことは、…たぶんきっと、ものすごく好きな方だ。でもそれは絶対に恋にはならない。
どれだけ“好き”を突き詰めても、彼に恋心を抱くことは無い。
それでも僕を好きでいてくれる彼に返せるものなんて、…僕にはきっと、これくらいしかない。
「君が駄目なんじゃなくて、僕側の問題で。僕は誰にも恋ができない。でも、君のことは気に入ってる。だから、君ならいいかなあって思ってるんだ」
抱いてよ、と囁くように口にして、ベッドの上に座らせた彼にすり寄る。首先に鼻を押し付けて、舌でなめた。
斎藤くんはびくりとも反応しない。
――ああ、怒ってるの、かな。
軽蔑したかもしれない。でも、それはそれで構わない。
それで僕を見限るなら見限ってほしい。
傷が深くなる前に。
思い知ればいい。僕はこういう人間なんだ。
「斎藤くん、――」
ちゅ、ちゅ、と音を立てて、彼の首筋に唇を落とす。できるだけ色っぽい声で名前を呼んで、ねだるように身体を押し付けて――唇に唇を合わせようと伸びあがったところで、斎藤くんが一言だけ、言葉を発した。
「止めろ」
「………」
低い声が、ほんの少し、…土方さんのそれと似ていて僕は動きを止めた。
「………、?」
あれ、変だな?
別に彼の一言に止まってあげる義理なんてないんだから、もっと攻めて、煽って――彼に――抱いてもらわないと。
簡単なことじゃないか。
なのにどうして、彼の一言で僕の身体は止まってしまうんだろう?
「…あ…」
低い声でも、別に怒りが込められているようには聞こえない。むしろ無表情で、無感動で、色のない声――それなのに何故だろう、
その声が“斎藤一の本当に怒ったときの声”だということを、僕は知っていた気がした。
あと少しでも身じろげばお互いの唇が触れてしまう、そんな距離で、斎藤くんは低く告げる。
「離れろ。それ以上はあんたでも許さない」
滑稽なほどに身体が震えて、僕は…僕は、へにゃりと身体の力を抜く。ぺたん、と、伸び上がっていた身体が膝から崩れて、それだけで彼との距離は面白いくらいに離れた。さっきまでキスができそうなくらい近かったのに、…あっという間だ。
冷たい声に、僕はびっくりしていた。
彼は無条件に優しいのだと思っていたから。
「…ぁ、お、…怒ったの…?やだな、僕は君のことを心配して」
「そういう意味での気遣いなら不要だ。むしろ気に障る」
「な、……」
怒っている。斎藤くんが。
僕は急に怖くなって、でもそれを悟られるのが嫌で、震える指を身体の後ろに隠した。
「あ…あはは、何マジになってるの?セックスなんて、僕にとっては日常的なことなんだ。慣れてるんだし、そんな大げさにとらえなくたっていいよ。君だって僕のこと悪く思ってないんでしょ?なら抱けるはずじゃないか。それとも今更、男相手は嫌だなんて言うつもり?」
「そういう問題ではない」
「だったらどういう問題なのさ」
「…そうか、あんたは、わからないんだな」
冷たい口調のまま、だ。呆れたようでもないのに、その声には諦観がにじんでいる。
彼の期待を、僕は裏切っているのだ。その事実が恐くて、僕は余計に必死になった。
「わ、わからないって、何が。僕は別に、…好きに抱いてもいいんだよって、…拒絶なんてしないよって、そう言いたかっただけで!」
「そうか。あんたは俺を、誘えばすぐに乗るような人間だと思っていた訳か」
「ちがう、ちがうよ。僕はただ、」
「――しかも、俺が何に怒っているのかもわからないんだな」
「……ち、ちが…僕は、」
斎藤くんは、傷ついた顔なんてしていなかった。けれど僕は彼の心を傷つけてしまったのだろうか。
…いや。
傷つけてもいいって、思っていたはずじゃないか。
それくらいの覚悟をもって、僕はこの行動にうつったのだから――
それで僕への気持ちをあきらめてくれるなら、彼にとってはそれが一番の――
「(本当に?)」
心臓がきゅうっとする。彼がこんなに冷たい声を出せるなんて。
斎藤くんは、その深い瞳で、僕の心を透かすように見つめる。
「俺はあんたを傷つけるものを許さない。たとえそれがあんた自身であってもだ」
「………」
「俺があんたを抱くことで、あんたが幸せになれるならいくらでも抱いてやる。そうじゃないなら二度とそういうことを言うな。不愉快だ」
「………」
「寂しいならそばにいる。眠れないなら抱きしめる。俺ができるのはそれくらいだろう?…そんなこともわからないほど、俺は馬鹿じゃない」
「僕、…そんなつもりじゃ、」
「誤解される前に言っておくが、もしもあんたが俺に恋をしていたなら、俺は迷いなく抱いていた。けれど今、あんたが言ったのはそういうことじゃない。単に自分を傷つけたくて俺を誘っただけだ」
斎藤くんは自嘲ともつかない淡々とした声でそう言った。
「俺に“諦めろ”とそう言いたいだけなら、直にそう言えばいい。そういうあんたは、俺は嫌いだ」
「………」
その言葉を聞いて、――氷でも落としたみたいに、一気に身体の体温が下がる。
斎藤くんは「言いすぎたか」とでも言いたげな顔を一瞬だけしたけれど、それ以上は何も言うことなく、立ち上がった。
そのまま「頭を冷やせ」と一言だけ言い置いて、部屋を出ていく。
僕は、馬鹿みたいに固まったまま、いつまでもいつまでも、彼の去っていった後のドアを、見つめ続けていた。
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