ごめん。
言うべき言葉はこの三文字だ。
「(よし。大丈夫)」
まずノックする。そうすると彼から返答があるはず。そうしたらいつも通り中に入って――たったの三文字だ。
それさえ言えれば後はもうその場の勢いだろう。
僕は深呼吸をする。
ノック。
…ノックしないと。
「……。うわあ…」
なんてことだろう。僕の手が滑稽に震えている。
誰に嫌われようと、気味悪がられようと、怖いと思ったことなんて一度もなかった。怒鳴られたって、殴られたって、別に平気だ。僕らは便利なモルモットなのだから。
そういうものだと思っていた。
何も怖がることなんて、なかった――はず。
そのはずなんだ。
…それなのに、今の僕は馬鹿みたいに怯えている。
「(もし許してもらえなかったらどうしよう、…)」
僕が怯えるのは、“彼の怒りが解けなかったら”の仮定の話。
他人と関わることをしなかった僕は、誰かと喧嘩をしたことがなかった――つまり僕は、誰かと仲直りを経験したことも、ないのだ。
「(…え、ええと、どうしよう。謝ることしか頭になかったけど…その後はどうするの?)」
許してもらえなかったとして、…諦めればいいの?粘ればいいの?何が最善なのか、それすらもよくわからない。
ただ、何が最悪の一手なのか、それだけはわかる。
停滞だ。
何も行動しないよりは、少しでも動いた方がいい。
「(誠意。うん、誠意だよ。土方さんだってそう言ってた。…素直になればいいんだ、素直に、…)」
でも、恋をできない僕が――彼と仲良くなりたいと願うのは、彼にとって残酷なことにはならないのかな…。
「………」
僕は我儘だ。
誰かに抱きしめてもらわないと眠れない僕は、ここのところ確かに彼を利用していた。呼べばいつでも飛んできて、傍にいて、抱きしめてくれる。彼は僕が好きなのだから、と。
――でも、でも。僕は彼に同じ気持ちを返してあげられない。
彼の恋心を僕は利用しているのだ、そういう受け止め方をされても当然のことをしている。
その上で虫のいい話だけれど。
でも、やっぱり、僕は…斎藤くんを失いたくないんだ。
「…と、とにかく…ノックしないと…!」
まずはこうしないとはじまらない。僕はぎゅっと右手に力を込めた。扉に触れる。さあやるぞ、と、やや大げさにコンコンとノックをした瞬間――
「あんたは…そんな格好でうろつくなと、前も言ったはずなんだがな」
声は、後ろから聞こえた。
条件反射で振り向けば、相も変わらず黒づくめの、斎藤くんがそこにいた。
「?!?!?!」
「何を驚いている、沖田」
「だ、だって急に、…いつの間に…!」
「飲み物を買いに出かけていた。俺が現れて何か不都合なことがあるのか?」
「そ、そういうんじゃないけど、その、」
「まあ、ないだろうな」
それはもちろん、ここは斎藤くんの病室前だから当然だ。
慌てる僕に彼は軽くため息をついて、僕の肩に触れ、抱き寄せ――るのかと思ったけど違った。
自分の上着を僕の肩にかけた。
「え…その、ええと…斎藤くん、あの、僕、…その、…ご、ごめ…」
「やはりな。身体が冷えている」
「へ?いや、あの、だから斎藤くん、違うくて!僕のことはいいんだよ、それより僕、君に謝罪――」
「いいわけがないだろう」
「わぷっ」
ぐるぐる、と、謎の布を首に巻かれて、僕は思わず言葉を止めた。当たり前みたいに手を引かれて、気づいたら彼の部屋の中だ。
「いいから座れ、すぐ部屋を暖める。ああ、レモネードもいれるか。ちょっと待っていろ」
「…あっ、あの、斎藤くん!レモネードなんていれなくていいよ、それより僕――」
「いいからあんたは座っていろ。その話は後で聞く」
「………さ、…さいとうくん、あの、僕、ほんとに大丈夫だから、その、」
駄目だ、完全に彼のペースだ。
僕は泣きたい気持ちになって、
「きいて…」
そう、言ったんだけれど、彼は無視してレモネードを淹れに出て行ってしまった。
慌てて後ろを追いかけようとすると、目で「座っていろ」と命じられ、すくんで足が動かなくなってしまう。
「………」
頑張ろうと思った矢先に予定が外れて、もうどうしていいかわからない。
彼は僕の謝罪を聞くつもりがないのだろうか。
さっきから何を言ってもすぐに遮られちゃって――もう、何を言ったらいいのかわからない。
「沖田、何をしている。ちゃんと布団にくるまっていろ」
斎藤くんはレモネードを片手にすぐ戻ってきてくれたけれど、僕はそれすらも、拒絶のように受け取られてしまう。僕の身体のことは気にかけてくれるけれど…彼は怒っているのだ。このレモネードを飲んで、身体が温まったら、またあの部屋に帰すつもりなんだ。
「(彼は、やっぱり怒っているんだ)」
だってさっきから、全然目を、あわせてくれない…
「……さ、斎藤くん…」
「ほら、レモネードだ。ここに置いておく」
「………」
「?何をしているんだ。ベッドの上に座って布団にくるまれ。そうしないと暖まらないだろう」
「……あの…僕、暖まるためにここに来たんじゃないから…」
「…沖田?どうした?」
斎藤くんは、ようやく僕の目を見た。
あ。
駄目だ。
斎藤くん、不快そうな顔をしてる。
…どうしよう、もう、帰りたい。怖くて仕方ない。声が震えて、みっともないけど、俯いてしまう。
「あ、……、」
「どうした?様子が妙だが」
怖い。怖い怖い。でも、駄目だ。せめてちゃんと謝らないと。
さっきあんなに練習したじゃないか。
「ご、ごめん、…ごめんなさ、」
誠意。誠意だ。
素直に、素直に…
怖くて顔も見れないけれど、自分でも驚くくらいたどたどしいけれど。でも、ここで頑張らないと、僕は彼を失ってしまうんだ。
「な…仲直りを、して、ください。僕と」
「何だそれは」
「君が、お…怒ってる…から」
彼の冷たい声音が怖くて、目をつぶる。こういう時は相手の目を見て言うものだって、弟が教えてくれたのに――もしも冷たい表情で睨み付けられていたらどうしようと考えると、どうしても目を開けることができなかった。
「やっぱり僕、君に嫌われるの、嫌だ…ど、どうしたらいいのか、僕、わからないんだけど。何をしたらいいのか、教えてほしい。…どうしたら前みたいに、傍にいてくれる?」
「………」
「二度と変なこと言わないようにするし、抱いて、なんて我儘言わない。ちゃんと一人で寝るから、だから、…あの…」
「………」
「……、駄目、かな…」
もうどうしたらいいのかわからない。
返事を待てばいいの?部屋から出て行けばいいの?どうしたらいいんだろう。
恐いけどなんとか勇気を振り絞ってちらりと一瞬だけ顔をうかがうと、斎藤くんは物凄く不思議そうな顔をしていた。
「何を言っているのかと思えば。今、俺が怒っているのは、あんたが自分の身体を冷やしているからなんだが」
「―――?」
「俺の怒りを買うのが怖いなら、まずは身体を暖めろと言っている。話はそれからだ」
何を言われたのかわからなくて僕が顔を上げると、斎藤くんがやれやれとため息を吐いたところだった。
そして今度は、手を伸ばして僕の頬に触れる。
暖かい手のひらの感触に身じろいだ瞬間、真顔の斎藤くんが、低く言った。
「あんたは勘違いをしているな。前も今も俺が怒ったのは、あんたが自分を大事にしないから。――それ以外に理由はない」
惚れてもいない男に同情で抱かれようとするなどと、俺が許せるわけがないだろう。彼はそんなことを、やや怒ったような口調で告げた。
「あまり見くびらないで欲しいものだな。そもそも、俺があんたを嫌うことなどあり得ない」
「………う、だ、だって、僕のこと嫌いって、この間…」
「?言ったか?」
「言ったよ!部屋から出ていくとき、そういう僕のことは嫌いだって、言った…!」
「そうだったか?まあ多少気が立っていたからな。言葉の綾だろう」
「あ、…あや…?」
なんなのだそれは、と、困惑する僕に、斎藤くんはむっとして返した。
「怒っていたのは本当だ。あんたは自分の幸せについて無頓着すぎる。まったく俺と土方さんが何のためにここにいると思っているんだ」
「き、君が何を言っているのか全然わからないんだけど」
「奇遇だな。俺もあんたの考えていることは全然わからん。…いいからベッドに座れ、布団にでもくるまっていろ」
「な、…ッなにそれ…、」
「身体を冷やすな。冷えは万病のもとだ」
そこまで言うなら君が暖めてくれればいいじゃないか。そう茶化してやってもよかったけれど、…やっぱり前の、彼に嫌いとまで言われた時のことが脳裏をかすめて口にはできない。
それでも、ここで素直に言うことを聞くつもりにならなくて、僕はわざとベッドから距離をとり、言いつのった。
ここで言うとおりにして、僕の身体が温まったら、彼は僕を追い出すかもしれないのだ。
「なんだよそれ。僕ずっと、…ずっと気に病んで!どうやって謝ろうとかどうして斎藤くんはあんなに怒ったんだろうとか、…やっぱり幻滅されちゃったのかとか、もうお話もできなくなっちゃうのかとか、色々、本当に色々考えてたのに…!」
「そんなことを怒られても困るのだが…ああわかった、あんたの話はじっくり聞くことにする。だから、とにかく身体を暖めろ。心配でこちらの気が休まらない」
些細な抵抗はなかったものと見なされてしまったようで、腕を引かれ、ベッドの上に座らされて、ぐるぐると布団でまかれる。ふわふわと暖かいそれに包まれながら、僕は心に血が通うのを感じた。
…どうやら、僕の謝罪は、拒否された訳ではないらしい。
「…お、怒ってない、の」
「だから怒っていると言っているだろう」
怒っていると言いながら優しい口調で、斎藤くんはくすぐるみたいに僕の頬に触れた。
「あんたが自分の身体を冷やすからだ。身体が弱るとよく発作を起こすくせに、不用心この上ない」
「う、うん。それは、…気を付けるけど…僕自身が君に酷いことをしているのに、それについては怒ってないの?君の気持ちに応えるつもりなんかないくせに、いいように振り回して」
「もとよりそのつもりで俺はあんたの傍にいる。好きに利用すればいい」
「…どうして君は僕にそこまで尽くしてくれるの…?」
「…どうして、と言われても…」
あんたが好きだから、等と言うと、困らせるだけだろう――そういう言葉が浮いて見えるようだ。
斎藤くんはわずかに目を伏せ、それから僕を見つめた。
「あんたも、そのうちにわかる。俺にとって沖田総司は特別なんだ」
別段辛そうでもなく、静かに斎藤くんは目を逸らす。
僕の心を傷つけないように、だ。
ほんとうに見返りを求めないのだと、証明するように――
「………」
それを見ていると、何故だか僕の心臓がしくしくと痛み出す。まるで心臓ごと雑巾絞りでもされたみたいだ。
身体中の血液が沸騰するみたいに全身に行きわたって、――身体が熱いような感覚。
心臓が五月蠅い。
ああ駄目だなあ。彼を見ると僕は、どうにも甘えたくなってしまうみたいだ。
甘えても、彼は気味悪がらずに受け止めてくれるから。
不思議なほどに素直な感情を、僕は思わず口にしてしまうんだ。
「…さ、斎藤くんあのね、…僕ね、」
「何だ?」
「初めて知った。寂しいとか、そういう感情。今までは、あまり意識しないようにしてただけかもしれないけど…」
「……。そうか」
「喧嘩してよくわかった。僕は、君がいないと寂しいんだ…部屋が、すごく広くて。土方さんも弟もいない時なんか…その、し、死んじゃうくらい、寂しいって思ったんだよ。本当に」
「そうか。…そんなことであんたに死なれるのは、俺も困るな」
冗談だと思ったのか、斎藤くんは薄く微笑みながらそう言ってくれる。僕も頷いた。
「うん。僕も困る。だから斎藤くん、もう僕と喧嘩しないで。もうあんなふうに誘ったりなんてしないから…嫌いなんて、二度と言わないで…」
「そうだな、不安にさせたのなら悪かった。――俺はあんたが好きだ」
「………」
あ。うわ。どうしたんだろう、また心臓が痛い。
首のあたりからカッと熱くなって、それが上へ上へとのぼってくるような感覚。
困ったな、今、僕の頬は赤くなったりしていないだろうか。
「(君は、すごい人だ。斎藤くん、)」
ああ、そうだ、これは、…そういうことなんだ。
こんなにも強烈で、苛烈で、僕の心を根こそぎ溶かしつくすような感情。
これがどういうものなのか、僕は知っている気がする。だからこそ絶対に自覚しないように、つとめて僕は、彼の目を見ないようにと意地を張った。
僕の中で育ち始めているその感情を、認める訳にはいかない。
僕は恋ができない。
恋をしてはいけない…、
「(そうだよ。僕は誰にも恋をしない)」
だからこそ、身体だけの関係ですら君と結ばれることがないのは、残念だったけれど。
「どうした、総司?」
「ど、どうもしない…よ?」
「顔が赤いようだが。風邪ではないのか」
「風邪じゃないよ。急に暖まったからじゃないの」
「そうか?ならいいが。今日は昼寝をする必要はあるのか」
「ん…いいよ、いらない。今日は君と、おしゃべりがしたい気分だから」
僕は、首を振る。
ほんとうは彼に抱きしめて欲しかったけれども、それは、我慢するべきだと思った。
「(駄目だ、駄目だ、だめだ。今彼に抱きしめられたら、たぶんそういう意味でも、抱いてほしくなっちゃう)」
無性に弟に会いたくなった。寂しいなって、そう思う。それでも斎藤くんだけは、…誘わない。
「(せっかく仲直りできたのに、“抱いてほしい”なんて言ったら、また、斎藤くん、怒っちゃう…嫌われちゃう…だからどれだけ抱いてほしくても、言っちゃだめだ。彼の期待に、応えなくちゃ。身体だけの関係なんて、汚らしいって、彼は思ってるんだ…)」
噛み締めた唇が、痛かった。
「(ごめん、僕は、…こんなに嫌らしい目で、君のことを見ている)」
苦しい。苦しい。
言っちゃ駄目だ、こんな気持ち。
心を殺さなきゃ。遠く、手も届かないところに――気持ちを置くんだ。静かに凍らせて、眠らせて、勝手な行動をしないようにしないと。
僕の心は、勝手に動いて、喚いて、泣いて、…我儘ばっかり言って、いつか本当に、死んでしまう。
駄目だ。
「(大丈夫、僕には、魔法がかかってる。土方さんのことも意識しないでいられたんだ、斎藤くんだって、大丈夫。…大丈夫、…大丈夫だよ…)」
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