これは、幼かった僕らのお話し。





僕らの閉じた世界の中で、一人だけ、異彩を放つ人間がいた。
いや、最初は意識していなかったのだ。彼も、その他大勢の科学者の一人であったから。
個人的に話す機会なんて、はじめはなかった。大多数の大人の声に埋もれて、――それがいつしか、僕らのなかで【特別】な位置へと浮上した、それだけの話。

綺麗な声をしているな、と、はじめは単純にそうとだけ思った。彼の声には下卑たところがない。
僕らの周りにいる大人たちは、みな一様に、どこか嫌らしい声と喋り方をしていたから、彼の言葉は僕らの耳を心地よくくすぐった。
よくよく聞くと、彼だけが大多数の大人のなかで、僕らを“人間”として扱っていたのだ。それに気づいてから、僕らははじめて、彼と接触を持った。
怖いけど、怒りっぽいけれど、…どこか暖かい声の人。
それが、僕らと土方さんの出会いだ。

その後土方さんは、僕らにとって唯一ともいえる“大人の”身内となる。
親を知らない僕らにとって、土方さんの存在は非常に特殊だった。
本当だったら赤の他人のはずなのに、何故だか弟は、まるで旧知の仲のように土方さんになついたから。
僕は少しだけ恐怖を覚えて、最初の方は焼きもちを焼いていた。

「(…ま、それもほんの最初の話)」

土方さんはとても有能で、上手に僕ら兄弟を守ってくれた。
“何よりも弟を大事にしている僕”を、まるごと大きく受け止めて、守ってくれる。僕らの異常性を知りぬいた上で、その前提ごと守ろうだなんて、そんなことを真剣に考えてくれる人は初めてだった。
だから僕も彼を認めるようになった。
母でも父でも兄でもないけれど、僕らにとって土方さんだけは、特別だったんだ。

「(その“特別”の意味をはき違えだしたのは、いつのころだっただろう)」

あれはたぶん、土方さんの存在が、僕らに馴染んで少しした頃だ――土方さんに、違う意味で惹かれている自分を自覚せざるをえなくなったのは。



目が追う。土方さんの背中を見て、胸が痛いような、妙な気持ちになる。
心が、喚いて暴れるのだ。
この人に愛されてみたいなどと、我儘なことを勝手に主張しだす。

言葉になんて絶対にしなかったけれども、僕らは心のどこかで思っていた。
土方さんに愛されてみたい。愛してほしい。
手を伸ばす勇気はないけれど、…返せる見返りもないけれど。
そんなものを必要としないくらい、無条件に“自分を”愛してほしかった。
大人である土方さんなら、それができるんだろうなあと、思った。

いいなあ、なんて、そんな風に思ったのはたぶん、必然だ。

そう。僕はあの子の“兄”であろうと頑張ったけれど――ほんとうのところ、僕なんかよりも土方さんの方が、あの子の“兄”らしかったような気がする。
弟を可愛がりながら、それでいて、僕のことも上手に大事にしてくれた。
土方さんは大人だったから、僕ら二人をいっぺんに“大事にする”余裕と器量があった。

驚くほど頭が良くて、要領も良くて――格好良くて。
なんというか、今思えば、僕ら二人が土方さんに恋をしたのは無理もない話なのかしれない。

「(だってあの人、それこそ大人げないくらい、格好いいとこしか僕らに見せないんだから…)」

子どもである僕らは、どれだけ背伸びをしたところで、身の内にすくう恐怖をねじ伏せることはできないのに。土方さんはその恐怖すらも凌駕して、強くて、頼もしい。
僕は土方さんに恋をした。そして同時に気付いた。
弟も、土方さんに恋をしている。双子ならではの感覚で、染みるように、それは伝わってきた。



けれどそれは、僕の心に悪い意味では響かなかった。ああそうだろうなって、それだけの、単純な感覚だ。
僕は何の心配もしていなかった。
むしろ安心しきっていた、と言ってもいい。

「(相手が土方さんだったから)」

土方さんだったら、…僕ら二人をいっぺんに大事にしてくれるだろうって思ってた。
あの人が僕ら二人のどちらかを選ぶはずなんてないって、思っていた。



あの日、までは。

僕の首を絞める弟と、殺されかけた僕を見て――土方さんが弟を責めるのを、見るまでは。





首を絞められ、初めて性行為を体験して、僕は強い発作を起こした。
土方さんは迷いなく弟を責め、僕を壊れ物を扱うかのように大事に扱って、…そう、大事に、“保護”した。

あの時のことはよく覚えている。
弟は限界だったのだ。僕が好きすぎて、嫌いすぎて、どうにかして僕を“消す”ことでその苦しさから逃れようとした。とはいっても、僕はそのことで弟を責めるつもりなどない。というかむしろ弟を責める人間の方をこそ許さない。

あの子は狂った研究者どもに「兄のために死ね」とずっと言われ続けていたんだ。小さな子供にそんな狂ったことを吹き込み続けたらどうなる?――心を守るために過激な行動に出たって、何もおかしいことなんてない。あの子は単に、一人で死ぬのが怖かっただけなんだから。
弟をくるっていると言うのなら、「この子と一緒に死ぬのなら別にいいかな」程度の軽い気持ちでいた、僕のほうがきっと狂っている。

そんなことはどうでもいい。弟が僕を殺そうとしたって、そんなことは些細なことだ。どうでもいいことだ。

大事なのは、…僕にとって衝撃だったのは、土方さんが、僕をまるで責めなかったこと。
弟だけを強く責めて、叱って――あんなにも悲しい顔を見せて。
それでも僕は、大事にするだけで、怒りも、悲しみも、しなかったこと。
ただ純粋な慈しみの気持ちで僕に接する土方さんを見て――ようやく気付いた。


土方さんも恋をしていたのだ。
弟に。
…それは決して“僕に”では、ない。
僕の大好きな、可愛い可愛い弟に、――恋をしていたのだ、と。

土方さんにとって“特別”なのは弟なのだ。
“慈しもう”という気持ちは、僕にも抱いてくれているのだろうけれど、それは“恋”ではない。僕にはそれがわかっていた。だって僕も土方さんが好きだったから。
僕も抱いた感情だからこそ、それがそうなのだと、わかってしまった。
…土方さんが望んでいたのは、弟だけなんだ。

強く叱って、怒って――あんなにも生々しい感情をぶつけるのは、弟にだけなのだ。弟を止めなかった僕を、土方さんはまるで怒ってくれなかった。それが僕には悲しい。

土方さんは僕を大事にすることで、弟の心を守っているのだ。それは僕を守っているだけじゃない。
弟を責めるのは、弟のためだけにやっていることなのに。
僕だけのために、彼が自分の“特別”を捧げることは――ない。
…土方さんは、僕のことを大事にしてくれるけれど。でもそれは、何も特別なことじゃない。
思い上がってはいけないのだと、そう、気づかされた。

哀しかった。
苦しかった。
でも、僕は、…ほんの少し、安堵もしていた。


僕が土方さんにできる最大の恩返しを、ようやく見つけることができたから。

弟を譲ればいいのだ。そうすれば、何も悲しいことなんてないじゃないか。

「(そうさ。ぼくがさみしいだけじゃないか、)」

土方さんのことは大好きだ。僕らのために人生を捧げてくれて、本当に感謝してる。
…僕のことを“特別”に見てくれることはなくとも、それでも、僕のことを慈しんで、大事にしてくれる人は、確かにあなただったから。
自分にできることはなんだろうって、考えて、考えて――僕はひとつの決意をした。

僕は、自分に魔法をかけることにしたんだ。

「(あなたへのこいごころを、ぼくは殺す)」












「(あなたじゃなくて…ぼくが殺す)」









恋なんて、二度とできないように。









⇒NEXT