殴られることよりも。血を吐くことよりも。発作が起きて、呼吸ができなくなることよりも。
あいつらにとっては、眠ることの方が怖い。
自分の意識がない時に、
――この傍に、あるべきはずの体温がなくなることの方が、怖い。
あいつらにとっては、自分の呼吸がなくなることなどまるで怖いことではなかった。
死ぬことよりも恐ろしいことで世の中はあふれている。
怖くて怖くて仕方なくて、この体温が自分を置いていってしまうのではないかと思うと、夜も眠れなくて。
そうやってずっと、悪夢を現実として見続けながら、ここまでやってきた。
沖田総司という人間性のその根本には、心の底を冷やすような虚無感がある。
兄は弟を。
弟は、兄を。
自分よりも大切に思うからこそ、死すら凌駕するほどの恐怖と闘わざるを得ないのだ。
だからこそ、見ている側は――物凄くじれったくて、危なっかしくて、愛おしく思う訳なのだけれども。
「(………、ギリギリだな…)」
先日採取した血液検査を眺めながら、独白するようにこぼした。ギリギリ、だ。
弟の方は検査にもほとんど異常が見受けられない。否、こう言うと語弊があるか――こいつの場合、肺の毒で溶かされた細胞を片っ端から修復する異常な回復能力のために、“異常であることが常”なのだ。
発作は、むしろ異常な回復能力のために過敏に反応した神経が苦痛を訴える点にある。苦しいのは苦しいが、死にはしない。たとえば呼吸が止まったところで――きっとこいつの身体は数時間生きていられるのだろう。
羅刹の寿命についての不安は残る。けれども、案ずるべきはむしろ、
「(兄の方、か、)」
兄の方は、弟とはまったく事情が違う。
普通の人間でありながら、弟の血を受けることでなんとか肺の毒に打ち勝っている。底抜けに回復能力がある訳ではない。こいつの身体は、羅刹の血の力を借りながら、なんとか肺の毒と戦えている状態なのだ。
けれども羅刹の血に頼りすぎると、それはそれで身を滅ぼす結果となる。
ミリ単位の細かなバランスの上で、なんとか持ちこたえている――そういう印象だった。
その状態を、ここ数年ずっと続けていられるのは、奇跡に近い。
いつ死んでもおかしくない。そして総司はそれを知っている。
だから弟の方は何とか兄を救おうと、ずっとずっと必死で――見ていられないほど必死で。
自分の命を差し出そう、なんて、子どもが思いつきもしないだろう考えを、当たり前のように受け入れていた。
「(あの馬鹿な科学者どもが、あいつらをそうさせた。…普通の家庭で、家族に愛されて育った訳じゃない。前世でのあいつと同じだ)」
ああ、思えば、初めて会ったときから総司はどこまでも総司らしかった。
モルモットのように扱われ、好き勝手に身体を弄られて。もう誰も信じられないと暗い目をした二人の小さな子供は、それでもその凛とした心だけは失わなかったのだ。
大事なものを汚されようとすれば、全力で抗った。自分はどんなに汚れても無頓着なくせに、自分の認めた人間が貶められることだけは我慢がならないのだ。
兄を助けようと必死に、大人たちからかばうように自分の小さな身体で覆い隠して、抱きしめて。
紅葉みたいな小さな掌が、力を入れすぎて白く固くなっていた。
そうだ――それを見て俺は前世の記憶を思い出したのだ。
前世ではその相手は近藤さんだった。今の総司も同じようにただ一人の信じる相手を見つけて、それをただひたすら守ろうとしている。純粋無垢でどこか痛々しく、けれどうつくしい、総司らしい生き方だった。
俺が助ける。
そう心に決めたのはいつだったか。
前世で総司のために生きてやれなかった俺が、何のために再び生を受けたのか――わかる気がしたのだ。
俺は沖田総司を幸せにするために生まれた。
それを当たり前のように受け入れてから数年もたっている。
そう、数年も…
「……ぁああああああああああああああああああもうー!」
感傷に浸る心は、一瞬で霧散して掻き消えた。
勢い良く扉をはじくようにして、いきなり現れた闖入者がいらだたしげに地面を踏む。
「むかつく!むっかつく!ああもう土方さんってばどうしてあいつ追い出さないの…!」
「………五月蠅えなあ…」
一人でここまで騒音をまき散らせるのは、俺の周辺ではこいつくらいなものだ。
ここのところは毎日一度ほどのペースで、俺の部屋に怒鳴り込みに来ている。
「僕の兄さんなのに!僕のだよ!あんたのじゃないし!あげてないし!…なのに膝枕とかしてさあ!なんなのもう!むっかつく!むかつく…!」
「……うるせえんだよお前は、毎日毎日」
「だって土方さん、斎藤一ほんとにちょっと調子に乗りすぎだよ!酷いよ!僕の兄さんなのに…!」
「………」
うるさい。というか、やかましい。というか、…毎回同じことに同じテンションで怒りまくって、飽きないのか、と言いたい。俺の方はとっくに飽きているのだけれど、総司は毎回同じように怒って、俺に愚痴を言いに来る。
「別にいいだろ、膝枕くらい」
「よくないもん、…僕の兄さんなんだから…ッ」
そして総司は、きっ、と俺をにらむのだ。これもいつものことだった。
「それもこれも土方さんが意気地ないからだよ。とっとと兄さんに手を出して自分のモノにしないから、斎藤一みたいなのに横から掻っ攫われちゃったんだ。早く取り戻さないと後悔するよ?」
「あのなあ。だから俺とあいつのことはお前が気に揉む必要はないって前から何度も言ってるだろうが」
「でも土方さん、ほんとに、ほんとにヤバいんだって。兄さん、あいつのことかなり気に入ってるし。ここのところ毎日会いに行ってるし…」
……。
なるほど、それで“毎日”俺の所に愚痴を言いに来るわけか。よくわかった。
「あっ、でも安心して?」
「あ?」
「兄さんとエッチだけは絶対させないように強く釘打ってるから。念のために毎日チェックしてるし。兄さんは僕以外には抱かれてないよ」
「ぶっ……何言ってやがる!阿呆かお前は!」
「え?だって大事なことでしょ。土方さんって嫉妬深いじゃないですか。前世の記憶ってそんなに持ってないけど、あなたが自分のモノにすごいこだわりがあるの知ってるし。すぐヤキモチ焼くのも何となく覚えてるよ」
「馬鹿言うな。だから何度も言ってるだろ、俺とあいつのことに関しては口を出すな。お前の兄貴は斎藤と付き合ってるんだろう。斎藤と幸せになるんなら、手を出すつもりはねえよ」
「………」
むすりと黙り込む。「でも」とついうっかり零れそうになる一言をなんとか呑み込んで、じっと俺を見つめる総司の瞳は、まあ想像していた通りの純真無垢さだった。
「(…まったく…)」
ぽん、と、頭に手を置いただけで、びくりと震える。慰められることに慣れていないのだ。
「大丈夫だ、別に斎藤と恋仲になったとしても、俺たちの関係は変わらない。あいつはお前が一番大事だろうし、俺だって変わらずにあいつを大事にし続けるよ。何も変わるところがない。俺たちにとって大事なものが一つ増えるって、それだけだろう」
「…僕は認めてない…」
「斎藤が来てから、笑い方が柔らかくなったって、お前そう言ってたじゃねえか」
「そうだけど!…そうだけど、なんか、嫌なんだ、やっぱり兄さんを幸せにするのは土方さんがいい…」
「勿論、俺だってあいつのためなら何だってするさ。けど相手を選ぶのはあいつだ」
「…………」
「というか、どうしてお前、俺とあいつをくっつけることにそうこだわるんだよ。放っておけって何度も言ってるじゃねえか」
「……ッ」
前に“口を出すな”と強く拒絶されたことを、まだ根に持っているらしい。総司は余計に怯えたようで、びくりと震え、視線を伏せてしまう。…そうだ、こいつはそういう奴だった。自分が認めた誰かから嫌われるのを、ことさらに怖がる。
今までは何でも許容してきた俺に急に拒絶されたから、きっと怖がっているのだろう。
「(…まあ、“認められている”ってことだから、この反応は素直に嬉しいんだが…)」
総司は小さな声で、「僕だって」と、言った。あんまり小さな声なので聞き取れない。なんだよ、と、顔を近づけると、今度は少しだけ大きな声で、
「…死ぬのは、怖いから。死んだ後に忘れられるのが、怖いから」
「………あ?」
なんで自分が死ぬと決めてかかってるんだ、と、怒った声を出す。それに総司は、また怯えてしまったらしい。
「でも、僕、僕……どうせ死ぬなら、あなたに殺されたくて」
「………」
「…だって僕は、僕の身体を裂くのも、兄さんの中から僕を消すのも、土方さんがいい。土方さんじゃなきゃ、いやなんだよ。斎藤一じゃ駄目なんだよ。どうせ死ぬなら一つくらい我儘言ったって、いいじゃないか」
もうべそをかきそうな弱弱しい声で、総司はそういう。
……これを。
この、無自覚に告白するみたいなクソ可愛いことを言うこいつを。
抱きしめる権利が、どうして俺には無いのだろう。
「(…くそ…)」
抱きしめたい。けれどそんなことをしてはいけない。まだ俺は、こいつらを救えていないのだ。
確実な未来を約束できないままに、こいつを手に入れてはいけない。
このままいけば、兄の方は確実に弟よりも先に命を落とすだろう。
遺されたこいつがどれだけ悲観するか。どれだけ苦しむのか、俺はもう、知ってしまっている。
兄を救って、きちんとした未来を約束できないのならば――俺はこいつを手に入れる資格がないのだ。
「…土方さん、怒ってる…?」
少しだけ怯えたように、総司はおそるおそると言う。
「怒っているわけじゃねえ。お前がまだ、“自分が死ぬ”可能性を捨てきれないのは、俺がお前たちを救えていないからだろう。要は俺の力不足だ」
「………」
「そのうち見せつけてやるから、黙って待ってろ。お前は死なない。あいつも殺さない。二人で生き延びればいい。…そうすればお前も、“影だ”なんて馬鹿なこと言わないで、素直に自分の幸せを見つけれるだろう」
「……僕の、幸せ…」
「そうだ。俺に殺されたいなんてのは、我儘のうちに入らねえよ。お前には俺の意地に賭けてでも生きてもらうつもりだからな」
「そんなこと、ほんとにできるの?」
「やってやるさ。…だから、どうせなら、もうちょっとマシな我儘を言え。一つくらいなら聞いてやるから」
総司は、その瞬間何故だかきゅっと唇を結んだ。
何故だか少し、頬が赤い。
「………っ」
何を想像したのか知らないが、何かよからぬことを想像でもしたのだろうか。「はっ」と何かに気付いたような顔をし、それから慌ててふるふると首を振り、一人で赤くなったり青くなったりしている。何だかよくわからないが、思いつめたような顔だ。どう見てもおかしかった。
「……?おい、どうした総司。さっきから何一人で百面相してやがる」
「な、なんでも、ないです!」
「何でもない顔してねえぞ」
「なんでもないです!土方さんには関係ないことだから!」
「…なんだよそれは」
むっとする。総司は何やら赤い顔で、困ったように眉を寄せた。
「僕にもこの先、時間があるかもしれないなんて考えたこともなかったから。…なんか、変な感じがしちゃっただけです。気の迷い気の迷い、…ぅうう」
「なんだそれは」
「何でもないです。…何でもないですから」
何でもないようには見えないの、だが。
…この状態の総司に深入りしたら痛い目に会う、という経験談があるだけに、踏み込みにくかった。
「まあ、とにかく、焼きもちも大概にしておいてやれよ。斎藤もそろそろ困ってるだろ、お前が過剰に反応するから」
「だって兄さんは僕のだし。あげてないし」
「お前の兄はモノじゃねえだろ」
「僕の大事な兄さんをモノ扱いするつもりはないけど、…大事だからこそ、だよ。僕は認めてないから」
「………」
「斎藤一なんて、ちょっと優しくて、ちょっと見目がいいだけじゃないか。だいたい過ごしてきた年数が違うよね。兄さんのことなんて何もわかってないくせに」
「…それはどうだろうな、」
こういう時、こいつの表情はわかりやすい。
明らかにむっとしたような拗ねた顔で、俺をねめつけた。
「どういう意味」
「そのままの意味だ。総司は意地っ張りで強がりだからな。弱みなんて死んでも見せないくせに、斎藤にはどこかそのガードが緩む」
「…それは…」
「お前もよく知っているだろう、あいつは強がるのがものすごく、巧いんだ。巧すぎて周囲にそれをそうと気づかせないから、強い人間に見える」
実際のあいつは繊細で、敏感で、周囲のことをよく見ているし、自分がどういう状態かも理解できてしまっている。決して痛みに鈍感な訳ではないのだ。
「そう言えば、あの時は驚いた。総司のやつ、斎藤の前だと、強がろうにも何故だか巧くいかないらしくてな」
「何それ、前世の話?」
「ああ、昔からそうだ。俺や近藤さんの前では絶対に崩せないあいつの強がりを、斎藤はいつも簡単に崩す。そういう相性なんだろう。思えば斎藤にだけは、比較的素直に甘えていたしな――俺の前だと、いつも“大丈夫だ”“すぐに治る”ってそればっかりだったのによ」
「……」
むすり、と、今度こそ本当に拗ねきってしまったようだ。不機嫌そうな様子を隠しもしないで、「それでも僕は認めないから」とぶつぶつ文句を言っている。
…まあ、なんだかんだ言って兄を斎藤に譲っているからこそ、こうして俺のところにきて時間をつぶしているのだろうが。しかしそれでもやはり、斎藤を素直に認めるつもりはなさそうだ。
とはいえ、兄も弟も“沖田総司”。なんだかんだ言って、最後には認めることになるような気は、するのだけれども…
「(ああ、そうか。幕末のあのころの、俺の立ち位置に、今、斎藤はいるってことか)」
大好きな近藤さんと誰よりも近しい位置にいた、あの頃の土方歳三の立ち位置が――大好きな兄と近しい位置にいる今の斎藤と、かぶるのだ。
あの時、総司は俺に妬いていたから、素直じゃなかったし口も悪かった。
何だかんだで認めていても、何度だって突っかかっていくのだ。
そう考えるとおかしかった。
あの時俺が感じていた歯がゆさを、今頃斎藤も感じているのだろう。
「…まあ、つっかかられるのも、可愛いと言えば可愛いと言えなくもなかったんだが」
「は?何の話?」
「こっちの話だ」
とりあえず、まあ、頑張れ。
適当にそう心の中でエールを送って、俺はもう一度、目の前の白い頭をぽんぽんと撫でて誤魔化した。
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