びっくりした。
びっくりした。
…びっくり、した。
土方さんがあんなふうに、僕を叱ると思わなかった。
あんなふうに、嫌そうな顔をされたのも初めてだった。
今までは少し呆れた感じで、優しさを感じるような怒り方だったのに――今日は本当に苛々しているみたいで、怖かった。
初めはふがいなさを怒るつもりで出かけて行ったのに、その“怒り”よりも衝撃が強くて混乱する。
僕は土方さんのことを考えて、兄さんのことも考えて…一生懸命にやったのだから、むしろ褒めてくれるかと思ってたのに。
「(否、確かに僕は早まったことをしたかもしれないけれど。兄さんの身体に負担になるようなことをしたのは、反省しなきゃだけど――でも、でも、だって。土方さんを応援しようと思って、僕は…僕、は、)」
土方さんに「関係ない」と言われたことが、一番、嫌だった。
僕は――その程度は、土方さんに許されているのだと、勝手に思っていたから。
僕は土方さんと同じ視点にいるつもりになっていた。
土方さん自身と同じくらい、土方さんのことを考えていた、つもりだったんだ。
土方さんと兄がくっつけば、土方さんだって幸せになれる。一人ぼっちじゃなくなるんだ。
「(なのにどうして?土方さん。僕は、――)」
僕は、僕を生かしてほしいなんて、願った覚えはないんだよ。
僕の血が、兄さんを生かす。
羅刹の身体で生まれた僕は、言うならば兄を――引いては人間を――生かすための道具になる。
大好きな兄さんのために死ぬなら、僕はそれで構わないんだ。
土方さんだって、兄さんのことが大好きで大好きで仕方ないんでしょう?知ってるんだよ、いつも兄さんを大事にしてる。土方さんは兄さんのことが好きなんだ。
だから僕は、聞き分けのいい、いい子になろうって、頑張って自分を殺してきたんだよ?
なのにどうして今更、生きろなんて、言うの――
兄のためにならなんだってするって言ってくれた。
兄を守るためには僕を殺さないといけないはずじゃないか。
…僕まで守ってくれ、なんて、そんな弱みは、見せなかったはずだよ?
ずっとずっと、我慢していたんだから。
僕のことなんて二の次にしていたじゃない。ずっと、僕のことなんて――見てくれなかったじゃないか。
「…う、…うう…」
だからこんな風に、僕のことを見てくれて、厳しい優しさを見せつけられると――すごく辛くて、でも嬉しくて。
我儘なんて言いたくないのに。
二人が僕を大事にするたびに申し訳ない気持ちになって、切なくて、でも幸せで。
幸せだから死にたくなくなって。
僕はどうすればいいんだろう。土方さんは僕を殺すつもりがない。兄さんだって――確実に僕を殺してはくれないだろう(それくらいなら一緒に死ぬタイプの人だ)。このままだと、いろいろな計算が狂ってしまう。
…土方さんの甘言に騙されてはいけない。
僕は生きていてはいけないのだ。
僕の血を、兄にすべて譲らなければ――兄は普通の人間として、一生を終えることができなくなる。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。頼れるはずの土方さんは、僕を殺すのでは無い方向で、兄を守ろうと動いている。――それが叶うならどれだけいいかと思うけれど、でも、いざという時に後悔はしたくない。
僕を殺してくれる人が必要だ。
「……、……。斎藤くんなら…」
僕を殺してくれるだろうか。
――いや、やっぱり難しいかな。兄を生かすためには僕の身体を裂いて、血をつくるための組織を取り出さないといけない。どうなったって精密な作業になる。人の身体に詳しくないとまず無理だし、仮にも手術なのだ、素人ではできない。だいたい僕の身体は異常な回復力があるのだから、傷口がすぐに塞がる。麻酔も効かない。生きた人間を裂くだなんて、いくら彼でもできはしないだろう――それに。
「………」
それに?
「……はあ…」
ああもう、…もういいや!考えるのはやめだ!
まだ時間はあるのだし、ゆっくり土方さんを説得しよう。
難しいことはわかんない。考えたって答えなんて出るはずがないんだ。
大丈夫、大丈夫だ。土方さんだって、もしも兄が死にそうになれば、きちんと選んでくれるだろう。
土方さんには、僕を捨ててでも、大事な人を守ってほしい。
――そのための覚悟なら、もう伝えてる。
大丈夫、大丈夫だ。僕は土方さんを信じてる。
「…兄さん、どうしてるかな…」
こういう不安な気分の時は、兄の顔を見たくてたまらない。もちろん兄は、僕がこんな計画を立てていることなんて、気取られる訳にいかないけれど。
嘘をつくのなんて慣れている。
僕はとにかくこの浮ついた心をなんとかしようと、兄の姿を求めて廊下をさまよった。
† † †
総司が不機嫌である。
今の状況を端的に言うならばそれで十分だろう。
「ふーん。へーえ。君が、弟をねえ。へえええー」
「……だから誤解だと言っているだろう」
「何が誤解?どう誤解?キスだってしたんでしょ?」
「いや、だからそれは」
「し・た・ん・で・しょ?」
「………」
困って、俺は口をつぐむ。総司はそんな俺を見て、茶色の髪をぐるぐる指で遊びながら、足を組んだ。
さりげなく距離を取られる。
「――ふうん、君もアレなんだ。僕の弟狙い、ってわけ」
「だからそれはあいつが無理やり」
「別にいいよ。でも一言だけ言わせてもらうけど」
猫のような、挑戦的な目で、睨み付けられる。
「あの子は僕の弟だから。あんまり軽々しく手を出されると、ちょっぴり不愉快かなあー、…なんて」
「………」
こんなに怖い総司は初めてかもしれない。そう思いつつ、何度目かわからないため息をつく。
「だからそういう訳ではないのだ。あれは、あちらが俺を牽制する意図で起こした行動であって、あいつが俺に好意を持っているという訳では無い」
「そんなことはどうだっていい。どうだっていいことだよ。問題なのは君が弟をどう思っているかだ」
「…どういう意味だ、それは」
「土方さんに恋敵ができるのは、僕としてはあまり歓迎できない」
「………」
やはり土方さんの感情に、兄の方は気づいているらしい。どうにもややこしくなってきた。頭を抱えたい気分だ。
「あの子がすっごく可愛くて、おもわず食べちゃいたくなる気持ちはわかるけど。幾年越しの片想いでずっと我慢してる土方さんが可哀想だから、ぽっと出の君にはあげたくない」
「何の話だ…」
「――君がそんなに軽い奴だなんて思わなかった」
引き結んだ唇を、変に折り曲げる。わかりやすい拗ねた顔だ。
総司は言う。
土方さんは自分と弟を決して同じには扱わない。
兄である自分のことは、壊れ物を扱うみたいに繊細に大事にして――弟には少しだけ、乱暴だ。
理由はわかってる。
弟が自分を、弟自身よりも大事にしているから、土方さんも弟以上に、自分を大事に扱っているのだ。
傷つけないように大事に自分を守る土方さんの本心は、…まあ、単純に身体の弱い兄に対して過保護になってしまうっていうのももちろんだけど、きっとそれ以上に、そうすることで弟を守っているに等しい。
土方さんにとっての本当の特別は“弟”だ。
そんなの見ていればわかるのに、本当に鈍いというか何というか――
「うん。まあ、あれだよね。可愛いよね、ものすごく」
そう締めくくって、総司は、何故か胸を張る。
「そういう訳だから。弟のことは諦めて」
「だからそういう邪な思いであいつのことを見ている訳ではないのだと何度言えば」
「……」
いぶかしげ、というか、心を読む気満々の視線だ。読まれても別段困らないので放置するが。
「というか、総司。あんたこそさっきのアレは何なんだ」
「何。アレって」
「付き合うのどうの、嘘をついただろう」
「…。ああ、アレね。その場限りの適当な嘘だよ。ああでもしないと、なかなか進展しないでしょ、土方さんと弟は」
「………」
成程。
兄は弟と土方さんをくっつけようと。
弟は弟で兄と土方さんをくっつけようとしているのか。
総司はふんと鼻を鳴らすと、顔をそむける。
「…ああ。ごめんね、君だって弟のことが気に入ってるのに、変に誤解させるようなこと言っちゃって」
「だからそうつっかかるな」
「君が素直じゃないからだよ。弟のことが気になってるくせに全然そぶりも見せないんだから。……。ふん」
むすっとしている。
…訳が分からないことで不機嫌になり、言葉を閉ざすのは過去にもよくあったような気がするが…それにしても扱いが難しい。弟も大概だが、兄の方もどうやらそうらしかった。
「――…僕の方が君と長く一緒にいたはずなのにな。それでもやっぱり、君たちが選ぶのは“弟”なんだね。別にいいけど」
「だから俺は別に弟ばかりを大事に思っているのではない。あんたのことだって大事に思っている」
「嘘つかなくていいよ。僕の弟がかわいいコトなんて、僕がいっちばんよく知ってるんだから。君が惚れる理由だってよくわかるさ」
「だから人の話を聞けと」
「いいんだって。別にさ。君が弟のことを好きになる気持ちもわからなくないし。むしろ当然だって思うし?」
ならその膨らんだ頬をなんとかしろ。
そう言いたいが、言ってもきっと、怒りを返されるだけだろう。
何故こんな風に拗ねているのか、わからぬままでは話が続かない。
「…俺が弟のことを気に入っていたとして、どうしてあんたが拗ねるんだ」
「べっつにー」
「あんたは、恋人だのなんだの嘘をついて、俺を巻き込んだのだろう。これくらいは聞いても許されると思うが」
「………」
総司は、なぜか少し、顔を赤くして俺をにらむ。
しばらく何か言いたげに口を動かしていたが――ややあって、考えが定まったのだろう。声をひそめる。
「…まあ、そうだね。君には伝えておくべきかな」
「ぜひそうしてくれ」
「当然だけど、他言無用だよ。誰にも言わないよね」
「口の堅さなら自信がある」
「そ?じゃあ言うけどさ」
総司はどうでもよさそうに、さらりと告げた。
「実は僕も土方さんのことが好きだったりするんだよね」
「………」
「…………」
「……………」
「………………」
「…………………」
「……………。そ、そうなのか」
「うん。だから余計に、土方さんと弟のことについて、君に関わってほしくないんだ」
あっさりと告げられたその言葉は、俺の心にざわざわと騒がしい何かを連れてくる。
土方さんが惚れているのは弟の方だ。そのことを、この総司は知っている。
その上で、言っているのだ。
それはとても大きな不幸なように思えた。
「それは、その。…恋愛的な意味で、なのか?」
「たぶんだけど、…うん。そうなんじゃないのかな。わかんないけど」
「………」
「わかんない、って言うのも変な話だよね。でも、土方さんは弟のことが好きなんだって小さいときから気づいてたし…“好き”になったら、辛いでしょ?そう思って意識しないようにしてたんだ。だから、ほんとの所はわかんない。これが恋愛感情なのかどうかもわかんない。ただ、まあ、なんていうかな。弟のことがすごく羨ましいなーって思ったり、…土方さんに撫でてほしいなって思ったり、さ。あんまり考えないようにって頑張ってみたけど、思っちゃうんだから、そういうことなのかなって」
俺はよほど驚いた顔をしていたのだろう。総司はそんな俺を見て、くすりと小さく笑った。
「…呆けた顔してるね。そんなに意外?」
「いや、なんというか…とてもそうは見えなかったから」
「だろうね。僕、そういうの隠すのはすごく上手なんだ。自分を騙すのだって上手だよ」
それは辛いだろう。…慰める言葉などこの男には不要だろうが、それにしてもこれは、俺にも少し重い事実だった。
「土方さんには言わないのか」
「言う訳ないよ。弟がいるんだし」
「しかしそれでは、あんたが本当の意味で幸せにはなれないのではないのか」
「…ん?」
首を傾け、ぱちぱちと瞬きをした。“幸せ”という単語が引っ掛かったのだろうか、考え込むようなそぶりをする。
「いや、まあ、確かにあの二人がくっつくことが嬉しいとまでは流石に言えないけど――弟と争う気なんて全くこれっぽっちもないしね。だいたいそんなことになったら、あの子、絶対僕に土方さんを譲ろうとするし」
「……まあ、そうだろうな」
というか、気づいていなくとも、あの状態だ。どうなるかなど容易に想像がつく。
「それに、まあ、なんていうかな。僕は土方さんが好きだけど、それ以上に弟のことが大好きだから――ややこしい話になるんだけど、うん。なんていうかね、焼きもちを焼くとしても、両側に焼かないといけないっていう、とっても面倒な状態でね。もう逆に疲れるから、さっさとくっついてほしいなってくらいに思ってる」
「あんたは、それでいいのか?」
「よくはないけど、今が続くよりはいいかな。二人とも僕のことを嫌いになる訳じゃないんだし。…まあ、ちょっと、寂しくなっちゃうかなって思うけど、土方さんの気持ちに気付いた時点で覚悟はしていたから」
「………」
…ああ。
やはりこいつは沖田総司だ、と、染み入るように実感する。
寂しいくせにそう口にしない。
普段は子どもっぽくふるまうくせに肝心なところで我儘を言わない。
――驚くほど気丈で、意志が強いくせに、その内面は非常に柔らかいものを持っている。
だからこんな風に、どうでもよさそうな口調で自分のことを語る。無表情になるのだ。
泣きそうな気持ちを悟られまいと、意図的にすべての感情を消している。
「(…見ていられない)」
どうしてこの男はこう不器用なのだろう。
そこが好きでたまらない自分も大概だが――こればかりは性分だ。
「…で、どうしてあんたは、俺が弟を好きだと言うと拗ねるんだ」
「…………」
総司は、無表情なまま、少し顔を赤らめた。
「わ、わかんない。君が弟を好きになったら、僕、余計に寂しくなるなあって、…そう思っただけ」
総司は何やら照れているようで、それを隠そうと必死に無表情を装った。それがまた堪らなく健気に見える俺は、どこかがおかしいのかもしれない。
…幕末の、あの狂おしい時代。
寂しい、と口にしない寂しがりのこいつを――沖田総司を、俺はあの時、支えてやることができなかった。
その後悔が首の後ろまでせりあがってきて、堪らない気持ちにさせる。
ああ、駄目だ。
「総司」
「…ん…?」
「やはり俺はあんたが好きだ」
「………、え?」
「だから失恋の痛手につけ込むような真似だってするかもしれない」
「は、…え?…ええ?!」
総司の手に、己の手を重ねる。びくりと震えたそれは、少し冷たい。涙でも吸ったかのような、冷たさだ。
勿論そんなことはなくて、総司はめったなことで泣くような男ではないのだけれど。
…それでも今までの長い時間、たった一人でこの寂しさに耐えていたのだと思うと、この冷たさが総司の涙を吸って生まれたもののように思えてならなかった。
総司の目を、見る。大きく開かれたそれは、一目見てわかるほど、驚愕をうつしとったような色をしていた。
「幻滅してもいい。俺は、あんたの寂しさを殺したい。だから俺にしろ」
「あ、ええと、何、…え…?」
「惚れるなら、俺にしろと言っている」
「……。……え、…ぁ…う、……、」
みるみる赤くなる総司の顔と同様、声の温度も急に上がって、上ずった声が小さく俺の名を紡いだ。その程度のことが嬉しく思える。
「今すぐじゃなくても、俺をあんたの傍に置くだけでいい。辛いなら素直にそう言ってくれないか」
「いや、あのね、斎藤くん?別にそんな――あの、急にその、…僕その、そういうつもりで…言ったんじゃ、なくって。同情とか別にいいんだよ、その」
「同情?」
「う、ん?…あ、いや、同情じゃなくてもその、……君、弟のこと好きなんでしょ、キスだってしたんでしょ?別にさっきの話聞いたからって、無理に僕を口説かなくたって」
「別に無理をして言っている訳ではない。俺が好きなのは間違いなくお前だ」
「……、それはその、とても、こ…困る…」
しどろもどろで、そう言う。困るというよりは、恥ずかしくてたまらないといった顔だ。
ぎゅっと握った手を離し、かばうように隠して、「君が優しいのは知ってるけど」と口にした。
「――ごめん、伝え方が悪かったね。僕は、君の優しさに付け入るようなことはしたくないんだ」
「………」
そう言い切ってしまってから、何故だか総司は慌てたようだった。ぱっと顔を上げた総司の顔は赤い。
「あ、でも、…寂しいのはほんとだから傍にいてくれるのは嬉しい、な」
「わかった。今はそれで構わない」
「―――」
うん、と小さく頷いた、その細い首筋がやけに目についた。
過去の――幕末のころの総司はもっと強がるのが巧かったが、それでもやはり、似ているところは似ているものだ。この、困ったときにうつむきがちになる癖は変わらないらしい。
「ありがと、…はじめくん」
聞き取りにくい小声と同時に、ためらいがちに指にふれられる。
俺はそれを当然のように握り返した。
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