ただ一つ、ほんとうにただ一つだけ願うとするならば、

 

 

彼が安心して眠れるくらいに、世界が優しくあって欲しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢見の桜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たとえば彼が生きていて彼女が死んでいたら、彼はきっと後悔しただろう。

 

たとえば彼女が生きていて彼が死んでいたら、彼女もきっと後悔しただろう。

 

たとえば彼が死んでいて彼女も死んでいたら、彼らはきっと後悔しただろう。

 

じゃあ、たとえば彼が生きていて彼女も生きていたら?

 

 

簡単な話、その場にあったのは、その四択ただそれだけだったのだと、私はそう思う。

 

 

彼が死に、そして彼女が生きるか、彼が生き、そして彼女が死ぬか、もしくは両方死ぬか、それとも…両方生き残るか。

可能性はただその四つ。

 

…きっと。

たった四つの選択肢を前に死神は笑っただろう。

この期に及んで、自分の人生をたかが四枚のカードにゆだねた神の陳腐さを嘲笑ったのだろう。

 

彼は死神であり人間だった。

大人でもあり子供でもあった。

 

死神ではない彼は死を恐れ、同時に死神であった彼は死を愛した。

大人である彼は、彼女のために死ぬことを是とし、子供である彼は、自分よりも大事な彼女という存在の死を、純粋に恐れた。

だから。

 

 

死神は、賭けなかった。

 

微塵の迷いもなく彼が死に彼女が生きるカードを取った。

 

結果として彼が笑っていたはずの多くの時間が、その一瞬に殺されることになると、わかっていても。

 

受け入れた。

 

 

…それだけの、こと。

 

 

「萌太、くん」

 

 

それだけのこと。

彼がこの場にいたならば、困ったように笑っただろう。いつものように、底の見せない、子供らしくない笑顔で。

困ったように煙草をすえながら、首を傾けて言うんだろう。ごめんなさい。

 

謝るくらいなら死なないでよ。

そう言えば、きっともっと困った顔になる。彼はたいていのことは笑ってすませてしまう性質だが、家族と私が泣きそうな顔をすることだけが苦手だった。それ以外ではひょうひょうとしている癖に、その一瞬だけは、子供らしい困惑を見せることもあった。そんな彼が面白くて何度も泣きたそうな顔をわざと作ってみたりもした。

 

けれど。

 

今はもうそんな表情も見れない。

殺された。

殺されて…しまった。

 

 

「………いない」

 

桜の木を見上げながら、呟いた。

はらはら、わずかに白い色をさらしながら花弁が風に流れて、くるくると両面を見せながら綺麗に落ちていく。

その光景の中に人影は二つ。一つは私のもの。そしてもうひとつは、…石凪萌太ではなく、名を語らぬ戯言遣いのもの。

 

あたりまえだ。

萌太くんは、もう、いない。

 

私は、彼の死に様を知らないけれど。

それでもその事実だけは、この戯言遣いから聞いた。彼が、死んだ、と。

 

今も戯言遣いはその時のままで、だから私は彼を振り返ろうとはせず、頑なに桜に視線を投じた。揺るぎ無いその花弁は多くの人が流した感傷を吸い取り、こうまでも白くある。ふわり、と。落ちて。そうして、

 

 

 

 

 

「…今思えば、彼も。きっとぼくと同じで、どうしようもない、そういう存在だったんだろう」

 

 

 

 

踏みしめられた。

 

この桜に何の感傷もないだろうのはきっとこの男だけだ。笑わない、この戯言遣いは桜になど全く頓着しない。

 

ざり、と、甘い匂いを残した土を踏みしめて。

 

私を見る。

 

口を開いた。

 

「でも彼は、最期まで彼のまま、死んだ。死ぬ事が出来た」

 

ざり。

 

「正直に言わせてもらえれば…それがぼくには少しだけ、ほんの少しだけ…羨ましかったよ」

 

ざり。

 

「もしも彼が死神としてではなく人間として死ねたなら」

 

 

だとしたら彼は、死んだ、のではなく、生き終えた、んだろう。

 

 

 

ざり。

 

戯言遣いはちょうど私の数歩後ろで立ち止まった。

 

冷たさに悲しさをにじませた声。戯言遣いらしい、と私は笑った。

 

同時に思った。

ああ、彼はなんて酷い人。この戯言遣いにそうまで言わせるなんて。

 

ろくに恨みごとも言えないような。

それでいて憎まずにいられないような。

 

悲しいまでに完璧な死神は死に際すらも跡目無く美しかった。現実と夢が曖昧になった狭間を漂いながら、私はぐいと自分の頬についた桜の花びらを払う。生きている。死んでいない。死んでいないのに、生きてもいない。

 

「そう。馬鹿だったのね、萌太くんは」

 

彼が命をかけて守った彼女は、今も癒えない傷を追いながら、それでも幸せを探してる。

完璧すぎて吐き気がした。

すべてを手玉に取られているような気持ちすらした。冷たい土の中で彼は幸せに笑えているだろうか。笑えていると思う。きっと。そう、

 

「彼は、強かったんだよ。愚かなほどに」

 

そうなのだ。

彼はずるい。狡猾だ。

この一瞬に与えられた全ては、彼の思惑どおりに進んでいる。

 

彼が綺麗だと言った桜の木下で、私と戯言遣いは、その一瞬初めて対峙した。

 

「…痛みってさ、度を超えると感じなくなる、って言うじゃない。どうやら悲しみもそうみたいね」

 

もう何も感じない。音すらも遠く感じる。時間だけが、どれだけ懸命に両の手を伸ばしても遠くあった。

私は笑おうとして失敗し、おそらく酷く醜い表情のまま、戯言遣いと同じように地面を踏みしめた。

 

ざり。

 

「いーくん。私思うんだよ。きっとさ、私、」

 

「うん?」

 

「私、…死んでいるんだと思う」

 

「何が」

 

「私の中の、死、がさ。死んでいるんだよ。萌太くんが、殺してしまったの」

 

そう。だから困ったのだ。死がないと生きられないのに、彼が全部、奪ってしまった。だから私は生きてない。死んでもいないけれど。

 

ざあざあと、桜の花弁が鳴らす音だけが鮮明。舞い散る花びらに色は無い。鮮明でありながらも愚鈍な感覚は、ちりちりと瞼の裏の赤だけを拾い上げていた。

まるで血塗られているような赤、だ。目の奥が熱くて痛い。

 

戯言遣いは踏みにじられて茶色く変色した花びらの破片を踏んで、また、一歩、近づいた。

 

「君は、何がしたいのかな。どうしてこんな桜のところに来た?」

 

「萌太くんが桜、綺麗だ、って言ってたから」

 

そう。綺麗だ、そう、言っていたから。

私は、

 

「桜をね、染めようと思って」

 

「桜を?」

 

「そう。この桜。萌太くんが、喜ぶように。染めようと思って」

 

「…へえ」

 

「ここの近く、例のさ、駅なんだよ。萌太くんが死んだ、あの事故現場、近く」

 

「………なるほどね。それに必要なのが、そのナイフ、ってわけ」

 

「うん」

 

「……」

 

「ここで問題です。このナイフを使って、私は何をするつもりだと思う?」

 

「死ぬつもり?」

 

「ピンポン。正解」

 

 

私の喉を潰しても、目を抉っても、腕をもぎ取ってもいい。

できるならば誰か、時を戻して、どうかあの人を助けてあげて。

なんだったら私は泥の底に沈んで二度と浮かばなくても構わない。

そうしたなら、彼が生きてさえいてくれたなら、きっと水面下で私は泥を飲みながらでも笑っていられたのだから。

 

そう、何度も願った。

けれどそんな願いも地面に叩きつけられて踏みつぶされてしまった。もう今は、願う気すら起きない。

かなわない。だから、諦めた。

 

「血の色ってさぁ、綺麗だと思うんだよね。きっと、桜によく映えるよ」

 

「………」

 

「でもさあ、いーくんが来ちゃったらさ、できないんだよ。死ねない。何だか自分でもよくわからないんだけど、いーくんには私が死ぬとこ見て欲しくないんだよね…いや、ほんとに、なんでなのかは、わからないけど。同族嫌悪って言うのかな…あ、もしかして、君特有のアレかな?無為式ってヤツ、あれの影響?だったらさ、やめてよその無為式っての。調子狂う。イライラする」

 

「………」

 

「ねえお願いだよいーくん。黙って私を死なせて」

 

「死にたければ勝手に死ぬといい。死ねないのをぼくのせいにしないで欲しいな。それと、イライラする、は、こっちのセリフ」

 

無言だった戯言遣いは急にそう言った。私はゆっくりと、彼の顔を見る。相変わらずの無表情だ。ちりりと冷たい。

 

「勘違いしないでほしいね。ぼくはここに独り言を言いに来ただけだよ。残念だが、ぼくは死にたがってる人間の愚痴に付き合うだなんて面倒な芸当ができる人間じゃないんだ」

 

「…ふうん?独り言。なにかな、ソレ」

 

「ぼくは思うんだけど。今思えば、あの時…あの事故の時、」

 

戯言遣いは言葉を選びもしなかった。少し身じろいだ瞬間、肩に乗っていたはずの花びらがひらりと揺らめく。

 

 

「選択肢は、たったの四つしかなかった」

 

 

「………」

 

そう。

 

たとえば彼が生きていて彼女が死んでいたら、彼はきっと後悔しただろう。

 

たとえば彼女が生きていて彼が死んでいたら、彼女もきっと後悔しただろう。

 

たとえば彼が死んでいて彼女も死んでいたら、彼らはきっと後悔しただろう。

 

じゃあ、たとえば彼が生きていて彼女も生きていたら?

 

選択肢は、その、たったの四つ。

 

「そうだね…私も、そう思ってた、ところだよ」

 

私は頷いた。

そう。そうだ。その場所には、たった四つの、残酷な選択肢しかなかった。

一番最低なのは、…最後の選択肢をとれないようにしてあることだろう。選択肢自体は存在していても、…取れない。とれる確率が低すぎて、選ぼうにも選べない。リスクが高すぎる。だから。

 

「ぼくだったら…もしもぼくが萌太くんだったら、きっと嘲笑ったと思うんだ。だってたったの四つだぜ?この期に及んで、今まで自分の生きてきた人生のすべての終りが、こんなにもあっけない選択肢に限られてさ。どんだけ陳腐な運命なのだと、嘲笑ったと思う」

 

そう。

そうなのだ。

 

それはこの上なく残酷な選択。

だからきっと、彼も、

 

「そう。きっと萌太くんも、そう嘲笑ったんでしょう?」

 

「………そう、思う?」

 

「思う」

 

あたりまえだ。

私は戯言遣いを睨んだ。

 

「だってあんなにも望んだ幸せなのに、彼がそれを手にするのにどれだけの努力をしたのか、わかってるくせに、それを彼に手放させた。なんて酷い…なんて、残酷。そんなもの、恨むなって言われても、無理に決まってる」

 

だって、彼は。彼は!

 

彼は、彼も、生きたかったに決まってるんだ!死にたがってたなんてことは絶対に無い!それを手放させたのは彼であり彼女であり目の前の戯言遣いであり私でもある、全てのものに等しく責任を取らせて世界は回る。神が彼を殺した、彼の幸せを奪った!なのに、なのになのになのに、

 

「…それがね、」

 

それでも。

戯言遣いは、私の言い分など聞かなかった。ふと息を止める。目が合った。

 

「違うんだよ」

 

「え?」

 

「確かにぼくだったら、そうしただろう。でも彼は、…萌太くんは嘲笑ったりなんかしなかった。それを、ぼくは伝えに来たんだ」

 

「………」

 

一瞬言葉の意味をとらえ損ねた。

嘲笑ったりしなかった?何故?

 

あんな。

あれだけの努力をしてやっとつかんだ幸せを。

あんな理不尽な形で奪われて。

 

「萌太くんは笑ってたよ。最期。嘲笑じゃなくて、…幸せそうな笑顔で」

 

混乱した。

一瞬すべての世界が閉じたような気持ちすらした。

 

笑った?最期に?どうして。

 

こんなにも残酷な世界で、どうして。

 

「ど、…どうして?だって、そんな、」

 

「さあね。神とか運命とか、どうでもよかったんじゃない?」

 

「え?」

 

「知らないよ。ぼくは何も知らない。だからこれはただの戯言なんだけれどね…ただ、萌太くんが最期にあそこまで綺麗に笑ったのは、君や崩子ちゃんのためだったと、ぼくは思ってる」

 

「………」

 

「神を嘲笑うんじゃなくて、さ」

 

呪ったわけでも、嘲ったわけでもなくて。

単に、祈ったんじゃないかな。

だってでなければ、あんなに幸せそうに笑ったことに対して、説明がつかないから。

 

戯言遣いは感情の読めない口調で一方的にそう言うと、軽く両手を上げた。

 

「以上。独り言、終わり」

 

「………」

 

「死にたければ死ねばいいよ。ぼくは、止めないから」

 

「…もう遅いですよ、いーくん。めちゃくちゃ止めてるじゃないですか」

 

そんな。

この期に及んで、そんな事、

 

 

「ねえ、ちょっと待ってよ。ねえ、…嘘でしょう?私には、願うことしか許されないんだよ?なのに、」

 

 

私の喉を潰しても、目を抉っても、腕をもぎ取ってもいい。

 

できるならば誰か、時を戻して、どうかあの人を助けてあげて。

 

なんだったら私は泥の底に沈んで二度と浮かばなくても構わない。

 

そうしたなら、彼が生きてさえいてくれたなら、きっと水面下で私は泥を飲みながらでも笑っていられたのだから。

 

 

 

 

…なのに神様、どうしてあの美しい人を、

 

 

細切れの肉塊に変えたのですか。

 

 

 

 

ああ、ああ、

それなのに何て悲しい、

 

 

 

血の一滴になっても彼は美しいのだ。

 

 

 

「…それでも生きろって言うの?」

 

 

笑った。

あまりにも可笑しかった。

 

ああ、君は本当に、なんて残酷な死神。

 

 

たやすく希望なんて抱いてやらないけど。

それでも君がそう言うなら、私は生きなくちゃいけなくなるじゃないか。

 

「…は、は…っ!」

 

おかしい、おかしい、おかしい!

なんて可笑しい!こんなことは全部総じて狂ってる!

 

私にカードを差し出しているのは神じゃない。萌太くんだ。彼が微笑みながら、たった二つのカードを差し出している。

本当にたった二つの運命しかない。

 

 

「さあ、選ぶといい。選ばない、なんて逃げを用意してくれるほど、あの死神は優しくはないよ?」

 

 

私は笑った。

 

 

 

笑って…桜の下に跪いた。

 

 

 

選んだ。

 

…生きよう。

 

死見るように静かに、そう、すんなりと思った。思う事が、できた。

祈るという行為が生者にのみ許されたものだと言うのならば、私は祈るために生きなければいけない、そんな気がした。

 

だから、…祈ろう。

 

 















彼が安心して眠れるくらい、世界が優しくありますように

 

 



















アトガキ

なんか過去に書いた小説を見つけたので恐ろしく時季外れにも関わらずUPですー。
うん、なんか理由はよくわからないのですが、当時の自分はこの小説が気に入らなかったようです!(にこっ)
完結されていたに関わらずフォルダ内に放置されてたんですが、後で読み返してみるとこれはこれで結構頑張って書いてる気がしたので拾ってきました。何故か戯言遣いが出張っていますが、メインは恐ろしいまでに萌太です。管理人の原点がとてもよくわかりますね(笑)