好きとか嫌いとかそういう問題はどうでもいい。

 

憎いとか愛おしいとか、そういう問題もどうでもいい。

 

そこに意味なんてない。いや、僕の中に、意味なんて概念は無い。

 

だって意味は人の世で生じるものだから。

 

…僕は、人の世に生まれ堕ちることを拒んだのだから。

 

 

 

けれど、でも。

 

神は生まれたときからすでに神だったのだろうか。

 

僕の場合はどうだっただろう。思いだせない。

 

…生まれてきた覚えは、ないのだけれど。

 

 

わからない。

 

でも、だから。

 

何もわからない、何も理解しない、何にも理解できない、僕だから。

 

人ではない、神でもない、何者でもない僕だから。

 

 

僕は、きっと、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちりん。

 

と、頭の中で鈴の音が鳴ったような気がした。けれど空耳だとわかっていたので僕は何の反応も返さなかった。

 

ちりん。ちり。…り。

 

大きく揺らされた鈴を、振り上げて急に停止させたような妙な音だ。

まるでガラスがたてる音を細かく噛み砕いたような、ぴりぴりと耳朶をくすぐる、それでいて、あざ笑うかのような、音。

 

目の前の妹はしかしそんな音には気付かない様子で、真面目な顔をして僕を見ている。

 

当り前だ。この音は、嫌な事が起こる前の前兆のようなもの。死神の嗅覚をもって初めて拾える腐敗臭。だから、妹には、聞こえない。

 

「崩子」

 

「…私は、気持ちを覆すつもりはありません」

 

崩子は嫌にきっぱりとそう言った。

僕はうっすらと笑う。

 

「別に、そんなことは言いませんよ。崩子にしてはえらく短絡的で、…直線的すぎる行動に出たものだと、そう思っただけです」

 

「………」

 

昨日。

崩子が、いー兄を刺した。

 

それだけなら、僕にとってはそれほど意味を持つような事柄ではない。崩子が、…妹が、いー兄を殺すはずがないし、いー兄は妹に殺されるような人じゃない。わかっている。

 

問題なのは、その、…契約。

 

「私のした行動は、馬鹿げていると思いますか」

 

「馬鹿げてはいませんよ。馬鹿だとは思いますけど」

 

「………」

 

「わかっているはずです。喧嘩を売られているのはいー兄、ひとりだけ。だからそのいー兄を力づくで舞台から引き下ろしても、劇は進まない。崩子では役者が足りないとかそういう次元の問題ではないんですよ。崩子はただの観客ですから。たまたまその場に居合わせただけ」

 

「………」

 

「いー兄が舞台上にひっぱりあげてくれないと…僕らは、舞台にすら上れない」

 

「…萌太は、黙って見ていろと、言うのですか」

 

崩子は静かに、けれどどこか激しさを含ませた声音で、言った。

綺麗な赤の唇を、噛みしめるように。

 

「そんなことはどうでもいいのです。私はただ、…見ていられなかった、それだけ。大好きなお兄ちゃんが傷ついて、それでも舞台に上がろうとするのを、見ていられなかっただけ」

 

「そうでしょうね」

 

「みい姉さんも、傷ついた。私にだって、…彼の傷を、負いたいんです」

 

「それで、契約ですか」

 

りいん。りん。

 

ああ、また。鈴の音がうるさい。がんがんと叩きつけるように、直に脳内に響いてくる。

…わずらわしい。りんりんと響く甲高い音。きりきりと肺を締め付けるような、悪意。

 

「もう、決めたのですか」

 

「決めました」

 

「いー兄、ですか」

 

「そうです」

 

だったら僕には何も言うことはない。

妹が決めた。その決定に、僕は無力だ。もとより反対するつもりもないが。

 

だけど、でも。

 

 

少しだけ、悲しかった。

 

 

「萌太。私は、後悔するつもりはありません。戯言遣いのお兄ちゃんのために、私は、全てを捧げます」

 

「……ですか」

 

「です」

 

頷いて見せた。強く。

 

…崩子は、気付いていないのだろう。契約の、その意味を。

 

僕は窓の外を見る。

ぱらぱらと、雨が降っていた。ぱたぱたと、まるで親を探し求める子供のように、雨音がそこら辺を歩き回っている。ぱた、ぱた。ぱた。

 

「一人で行くつもりですか?」

 

「一人でも、行きます」

 

「…ん。僕も一緒に行くと言い出すと、確信してるような顔ですね」

 

「違いますか?」

 

僕は笑うことで、それに応えた。

そんなわけがない。

崩子が行くというのなら、僕も絶対に、行くだろう。人の世なんてとうの昔に捨てている。妹のために生きていると言っても過言ではない僕が、行かないわけがない。

 

でも。

 

「…崩子は、戦うと、決めたのですか」

 

「………」

 

「暴力には暴力で返し、殺されるくらいなら殺す。崩子が言っているのはそういうことですよ。あんなにも忌わしかった殺し名の力で、…あれだけ望んだ幸せを、あれだけ望んだ平穏を、全て捨てて…戦うと、決めたんですか」

 

「そうです。決めました」

 

「どうして」

 

「そうしなければ、家族を、守れないからです」

 

「そのために、戦って、血を浴びるつもり、ですか」

 

「そうです。でなければ…お兄ちゃんの平穏を勝ち取れないと、言うのなら」

 

平穏のために血を流すというのは、なかなか笑えるロジックだ。神もさぞかし可笑しく思っているだろう。吐き気がする。

 

崩子は気付いていない。

 

「血を浴びるのは、僕だけでいい…と言っても、僕だけを一人で行かせるつもりは、ないのですよね?」

 

「ありません。私も行きます。私は…強く、なりたいんです」

 

お兄ちゃんの役にたてるくらい、強く。

 

「………」

 

「だから。私も、戦います」

 

「………」

 

「萌太。私は…自分の考えを、覆すつもりはありません」

 

「考えを改めろ、とは、…言いませんよ」

 

言わないのではなく、言えないのかもしれないが。

そんなことは、些細な些事でしかない。

 

賽は投げられた。ただ、それだけのこと。

全ては手のひらの上の事象で、世界の全てはいつまで待っても馬鹿馬鹿しいことでしかなくて、決してそれ以上では有り得ない。

 

「強くなりましたね、…崩子」

 

「言葉の割には、不服そうな顔に見えますけど」

 

「そうですね…一言だけ、愚痴を言わせてもらえるならば」

 

吸う息が肺に冷たい。

僕は少しだけ、首を傾けた。

 

「血を流すことを強さと認められるだけの強さなんて、崩子には与えたくなかった」

 

「………」

 

「それだけです」

 

ぱた、ぱた。

雨音が止まない。たん、たん、と、屋根をたたく。子供が跳ねるようなリズム。

 

崩子は闘い方すら知らない。ただ、見ていられなかっただけ。それだけだ。

 

愚かと言えば愚か。

けれどそれも純粋が故なのだとしたら、僕は何も言えない。

 

自分が、人を殺せる人間だなんて。

気付かなくて、よかったのに。

 

「崩子」

 

傷を負ういー兄を見ていられないと言う。僕はそんな風には思わない。

傷はいー兄だけのものだ。いー兄でなければ負えない。好きなだけ、気が済むまで傷つけばいい。でなければ、浮かばれない傷もあるだろうから。

抗うか、抗わないか。それくらいしか選択肢なんてない。

 

崩子は、闘い方を間違えてる。

 

けれど、でも。

それもまた、正しいのだろう。

 

ならば僕に言うことはない。

 

「貴方のやろうとすることは、正当防衛と名目がつこうが何だろうが、結局は人を殺したいと願うこと、それだけですよ。それでもいいと、言うのですね」

 

「………」

 

「それは、とても悲しいことなのに」

 

それでも、…戦うと、言う。

 

二人がいままで積み上げてきたもの、そのすべてを、捧げる。奉納する。

 

人を殺した瞬間に奪われるものの重みを、知らないままに。

 

「それでも、私は、闘います」

 

返事は短かった。

 

「それは、…」

 

それは。

 

 

 

 

僕を、

 

 

 

 

 

「…殺す覚悟すらできて、そう、言っているんですか」

 

それは質問と言うよりは単なる独白に近かったと思う。

 

崩子はよく聞き取れなかったようで、殺す、の単語しか拾えなかったらしい。

 

「それがお兄ちゃんに害を与え続けるとわかっていて、それ以外に選択肢がないのならば、…私はこの手を汚すことすらもいといません」

 

だから、そう言った。

 

そうですか、と、僕は頷く。

 

「崩子がそう決めたのなら、それでいいですよ」

 

この先何が待ち受けているのかなんて、知らないけれど。

 

たぶん、結果はどうあれ、妹は一生をかけても癒えない傷を負うだろう。

それが心の傷にしても、肉体的な傷にしても。

人を殺せるほどには、崩子は、異常じゃない。

何かを背負って戦えるほど、強くもない。

 

ただ、強がっているだけ。

強がれるだけの強さを手に入れた、ただそれだけ。

 

 

 

…でも。

 

それでも崩子は、僕とは絶対値からして違う。

 

僕には最後までわからなかった。僕がどうやったら幸せになれるのか、…それだけが最後まで考えて考え抜いてもわからなかった。

 

でも妹は違う。幸せに、なれる。幸せになれる人間なんだ。

 

けれど、崩子は…人を殺してしまったら、きっと幸せになんてなれないだろうから。

 

そんな過ちを犯させるわけにはいかない。

 

 

 

 

 

 

 

僕には。

 

…僕には、僕の幸せはわからなかった。

 

でも、だから。

 

何もわからない、何も理解しない、何にも理解できない、僕だから。

 

人ではない、神でもない、何者でもない僕だから。

 

 

僕は、きっと、

 

 

 

 

…きっと、…

 

 

 

 

「萌太?」

 

「え、あ…すみません。少しぼーっとしてました」

 

何を考えているのだろう。

…酷く不吉なことを考えていた気がする。

 

ぎりぎりと脳を虫が食っているようだ。

嫌な音が響いて、とれない。

脳に直接彫り込むように。ぎりぎりと。りんりんと、…雑音。

 

「……何でもないです。気にしないで下さい」

 

少し心配そうに顔をのぞきこんでくる崩子に笑顔でそう言って、僕は、目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…雨音は、まだ、止まなかった。