僕はたぶん死ぬのだろうな、と、語った死神はあの時確か酷く冷めた目で自らの皮膚を見ていた。
彼の視線をたどれば、そこにあるのはきめの細かい白い肌の、手、なのだけれど、実際彼が見ているのは手ではなく、皮膚だろう。その薄い皮の向こうに、すべらかに流れる血液と、うごめく肉と、熱と、不可視な何か、常人では考えられないようなもの、を、見ているような、そんな予感に近い感傷を抱いた。
とにかく。
死ぬだろうな、と、死神は言ったのだ。
その一言は重いのに、音として発した唇は動くのすら面倒がるようで、小さく、それこそ最小限の動きしかしなかった。だから必然的にそれは呟きのような声音に変換され、ぽつり、落とされた卵みたいに、ふにゃり、形を崩す。
私はそれが地に染み込む前に、必死の気持ちで、拾いあげた。
泣きたいの?そう問う。いいえ、と、死神は笑った。
「僕は、泣けない、みたいで」
「どうして?」
「どうしても。どうあっても、拒絶されてしまうんですよね」
「拒絶」
「そう、拒絶。受け入れられることはない。決して」
「どうしても?」
「そう。どうしても」
どうしても。
どうしても、と、囁くように口にしても、続きの言の葉が語られることはなかった。不思議に思い私は首を傾ける。重心を傾けると首の皮がぐうと伸びて気分が悪い。血と肉と色々な体液が入り混じっているこの身体を酷く疎ましく思ったのは、これで何度目だろうか。
人である身を呪いたくも想い、人であることを喜ばしくも思った。
「(できるならばわかりあいたい。けれど)」
どうにも彼の感情と私の感傷が近くにある感覚が、それこそまったくと言っていいほど、なかった。
「(遠い)」
人と人とはただでさえ遠い。では、人と神との距離はどのようなものだろう。
人よりは近いと思う。
けれどその近さは、知覚できない位置にあるような、そんな気がした。
常に視界には入っても、手の届かない星や月や、光、のように。
「(死の、ように)」
こうまで近くにいるというのに、どうしようもない距離と時間を呼吸しているような気がして仕方がなかった。“近くにいる”という錯覚を、他でもない彼に、死神に、与えられているかのようにすら思った。
「(けれどそれを拒絶することは決してできない)」
見上げるような気持で彼を見た。
人は、きっと、何かを受け取ること、そして愚鈍なまでにそれを咀嚼し飲み込み血肉にすること、それだけ、ただそれだけしか、できないんだ。選択の余地など馬鹿げたものははなっからない。神の提示する世界に対し、私たちは、きっとどこまでも無力であるべきなのだ。
そうでなければ幸せになれない。
神の視点になど…なる必要はない。きっと。
だって目の前のこの死神が、幸福だと、私にはとても思えないのだ。
それはきっとこの死神から見ても同じこと。
「(だけど。でも。私は知ってる。彼は知らない)」
言葉にならない。その、哀しいという気持ちを。自身でさえ、知らない。
「(すべてが、すべてで彼を恐れている。だから)」
言葉ですら逃げ出すのが、目に見えるようだった。まるで彼の感情に恐れをなしたかのようだ。自らの意義を恥じ、言葉が自殺をする。言葉という言葉の全て、音という音のすべてが、彼の感情の重みに負け、ちりじりになって逃げた。それは光が砕ける様に似ている。見えないけれど、確かに、あるもの。そこにあったものが、不意に、胸のうちからそっと、音もなく扉開くようにして、出て行く。わずかな熱を持って、消えるように、いなくなる。熱を奪われて一人膝を抱えているのは、言葉にすら置き去りにされた、語る術を持たない神様だけで。
だから、その憐れを想って私は一人泣いていた。
死神はついぞ泣かなかった。
「泣くなんて、ずるっこですね」
ただ、一度だけ、酷く色を伴わない声で、死神がそう呟くのを聞いた。
ぽっかりと空から滑り落ちた無音の空間や、あくまで無計画に心に降りただろうその孤独感や。そういった、人の持つ感傷のようなもの、それに、困ったような、弱ったような…それこそ痛みを否定することを知らない子供のそれに近しい、それでいて酷くねじ曲がった、笑みに近しくとも決して笑顔などとは呼べないような類の、指先だけで崩れてしまいそうな均衡でもったギリギリの笑顔を、いつだって死神は浮かべていた。それ以外にするべきことを知らないのだ。
それを悲しいことだと、死神は決して認めない。
違うのだ、と、声を上げて、精一杯、彼に伝えてあげたかった。
「(違う。違う。憐れむべきは、)」
あなたなのに。
それでも死神は、その精一杯で私を憐れもうとする。
「いつもなんですよね。僕は貴方の涙の前に立つと、酷く誠実でいなくてはならない気がして、どうしたらいいのかわからなくて、いつも…そう、いつも。途方に暮れていた気がします。どうしてでしょうね。貴方の涙は、酷く、」
そこでまた、言葉に逃げられて。
少年は少しの躊躇いの後に、空白にひとにぎりの諦観を落として、酷く寂しそうに、けれどそれを知覚せず、笑った。
静かに涙をこぼす私を酷く眩しそうに見つめる。細い指の節がつと伸ばされ、触れられた私の髪はその栄誉に歓喜した。
おなじように膝を抱えて座り込んだ死神が笑う。
「ずるいです、貴方は、とても」
囚われた髪に触れたのは唇だ。
どうしようもない、手のつけようもない、底なんてあるはずもない、曇りない優しさを、死神は口にした。
「僕のためになんて、泣かないで」
笑って?
それ以外に僕が存在する意味なんてないから。