今でも覚えている情景があるのだ。
何が原因で何が悲しかったのか忘れてしまったけれど――あるいはそれは、何も悲しくはなかったのかもしれないし、ただ何となく涙があふれたそれだけのことだったのかもしれないけれど、とにかく。
私は彼の前で泣いたのだ。
前述のように理由はもう思い出せない――鮮明だったその胸のうちはとうぜんのうちに埋もれてなくなり、炭のように冷えた感覚だけになってしまった。けれど少なくとも彼と二人きりの空間でそうなってしまったことに、私は少しの罪悪感を感じていた――はず、だ。感じてはいても止められはしなかったが。とにかく私は泣いていて――静かに泣く私に、萌太くんは、少し慌ててくれたのだ。
よく覚えている。
「何がそんなに悲しいんですか?」
らしくもなく困りきって。顔をのぞきこもうとかがんで、けれど、すぐにふいと視線をそらした。そもそも顔を見られたくないから俯いているのだということに気付いたらしい。少しためらってから、傍に置いてあったタオルを取って、ためらいがちに、そっと手に押し付けてくれた。これで涙をふくように意図してのことらしいのだが、やたら控えめな仕草だった。
彼のそう言った仕草は酷く印象に残っているのだ。
普段なんでもこなしてしまう萌太くんなのに、こういうときに限ってどうしてそんなに動揺するのだろう。それが可笑しくて少しだけ笑えて。
「ごめん」
「…いえ」
息をつく。小さく、細く。
驚く隙すら与えられずに私の肢体は彼の腕におさまった。
泣いている、その現場、求めた助けに応えるよう抱きとめられて(彼らしいそつのない動作だった)――安堵と、後悔と、いくばくかの恐怖と、不安と…愛しさと、それからあと一つ、自分でも掴めない何か、が、ごろりと心の中で動いた。痛い。それが、痛くてたまらない。
「(痛い、)」
私の皮膚に、目にも映らないほどか細い針が幾本も突き刺さっている――つまるところそれはそういう痛みだった。
この痛みでは一滴の血も流れはしない。
「(可笑しいな、)」
私は私がどうして泣いているのかわからなかった。
ただ漠然と感じた、
「(死んでしまう、)」
そして思った。
死にたくない。死にたく、ない。
死にたくなんか――、
「(萌太くん、)」
瞼を押し当てた先のタオルは暖かくも冷たくもなかった。まるで世界のようだ。それは冷たくもないけれど暖かくもなかった。それはそういうものでしかなかった。
ただそこに在るだけの質量と、温度。
哀しいことだった。
「貴方はすごく素直に悲しむんですね」
「……」
「羨ましいな」
羨ましい、と、もう一度。
私の背を撫で、まるで鳥でも懐かせるかのように、柔らかな口調で死神は語った。
「泣けるって、いいですね――悲しさを、出せるってことは」
「悲しい、の。私は、」
「だって泣いてるじゃないですか。悲しいから泣くんでしょう――だったら貴方は、きっと、悲しいんですよ」
「泣いている、の?私は?」
「そうですよ。貴方は泣いてる、」
「萌太くん、は?」
「僕は――泣けないですよ」
きっぱりと、笑いを含んだ声が歪んで聞こえた。
「ど、して、」
「ごめんなさい。僕は泣けません、」
どうして。
死神は笑った。全てを断ち切るのにただ一言しか費やさなかった。それ以上を語るつもりはないとでもいう風に死神は言った。
「ごめんなさい」
私は悲しくてたまらなかった。
ねえ、どうしてあなたは泣かないの。
生きることを止めてしまいそうになる、から?
「萌太くん、も、泣いてよ」
――死にそうで死ねなかった、私のために。
けれど死神は答えなかった。
微笑んで――けれど泣きそうに儚い仕草で、ひとつ、手折れた花を引きちぎる。
それだけだった。
彼が私に許した応えは…それだけだったのだ。
彼が死んで、今でも思う。
彼が泣けたのは後にも先にもあの一度きりだったのだ。
あなたは残酷だ
甘く揺れるスイートピー