ぱた、ぱた、ぱた、ぱた。雨音が地面を叩く。どうやら今日の雨はずいぶんと機嫌がいいらしい。軽いタッチの、気軽で、こっちまで聞いてて嬉しくなるような、そんな音だった。
雨にも、いい雨と悪い雨がある。私は常々そう思っていた。機嫌のいい雨はとても軽やか。機嫌の悪い日は、少し乱暴で、荒々しい。
泣いている日もある。静かにぽつぽつと、静寂を壊さないように注意深く。
そういう雨も私は好きだった。
何となく胸のうちでリズムを刻みながら、静かな雨音を聞くのが好きだった。
…だから、窓辺に座って、何となくぼーっと外を見ていたんだけど。
「……あ」
私の部屋は、マンションの四階だ。だから、上から下を眺めることができる。上から見ると、傘の柄がよく見えた。柄だけじゃなくて、早く動く傘や、ゆったりと動く傘なんかもいる。人柄を表すその柄も、動きも、観察していて飽きることはなかった。せかせかした傘や、ゆったりした傘や、やたらオシャレなものとか、二つの傘がセットになって動いているもの。小さな傘は子供のものだ。スキップでもしているのか、時々くるりと回ったりするのが可愛らしい。
でも、ふと。
気づいてしまった。
そんな色鮮やかな光景の中で、ひとりだけ、ぽつんと、傘もささずに。ぼんやり上を見ている人影がいることを。
「萌太くん…?」
思わず口にしたらたまらなくなって、私は外に飛び出していた。
たん、たん、と、雨音が地面を叩いている。
何してるのこんなとこで、とか、ちゃんと傘をさしなさい、とか、色々と言うべきことはあったのだろうと、思う。
初めに感じたのはどうしようもない焦燥。言葉は本人を前にしたら、どこかに霧散して消えてしまった。
凛として動かない背中を見たら、何となく。かける声もなくしてしまったのだ。
彼を前に、何かを有して立つことは不可能だった。
たん、たん、と、軽やかな雨音。
しとどに濡れた髪とか、力なく垂らされた指先とか、それなのに自分を見失わずにいる肩先とか。
すべてが人の世のものとは違うように思えて怖かった。
「萌太くん」
だから、私は名前を呼んだ。
「…あ」
小さな声をあげて、萌太くんが振り向く。傘もささずに立っているから、服も髪もびっしょりで、普段とは少し印象が変わっていた。どっちにしても綺麗なのには変わりは無いけど、冷たそうなその唇とか、いつもと違ってどこさ寂しそうな笑顔とかに心がいく。
萌太くんは、不思議そうな顔で私を見ていた。
「こんにち、は?」
「…こんにちは」
私は静かにそう返した。傘をささずにいるから、肩から先に濡れていく。じわじわ、じわじわ。侵食されていくような感覚がした。
「
姉。どうして傘、ささないんですか」
「その言葉はそっくりそのまま、君に返す」
萌太くんは、何も言わなかった。ただ静かに微笑んでいた。その綺麗な顔を私は睨みつける。
「どうしてこんな場所にいるの」
「…ん。いえ、たまたま近くを通っただけですよ」
「そう」
頷く。
「そうです」
萌太くんも、頷いた。
私は間髪いれずに言う。
「…嘘吐きだね、萌太くんは」
「あ、バレてますか?やっぱり」
「うん。バレてるよ。バレバレだよ」
わかるよ。
萌太くんが悲しそうにしてるの、感じるよ。
いつも見てるもの、バレバレだよ。
君がそれくらい強い人だってこと、私は知ってるよ。
「何があったの?」
「妹が、いー兄と契約したんです」
「契約?」
「ごめんなさい。上手に説明できないんですけど」
「うん」
「とにかく色々あって。…ちょっとだけ、悲しい気分だったので」
「うん」
「
姉に会いに来ちゃいました」
「うん」
頷く。
私は萌太くんの傍によって、彼を見上げた。
白い頬がわずかに青ざめてる。綺麗な色だ。妹の崩子ちゃんの肌は雪のような白色をしているけれど、萌太くんのは、黒に映える白をしている。漆黒の黒髪に相成って、本当に、綺麗な白だった。死神にふさわしいと、どこか遠くでぼんやりと思う。
少年として。兄として。死神として。
全てが入り交ざって、彼はとても危ういのに。
どうしてこれほどまで強いのだろう。不思議だった。
これほどまで痛々しい存在なのに、彼は戦い方を決して間違えない。たとえ本人が戦いを望まなくても。
「萌太くん、一人で生きることの意味を履き違えちゃいけないよ」
せめて私の気持ちが彼に伝わればいいのに。
そう思って、私は言った。必死だった。
不思議そうな顔をした萌太くんの目を、じっと見つめた。
「何でもかんでも、1人で背負わなくてもいいんだよ」
「………え?」
「辛いなら、辛いって言ってよ。お願いだから」
「………」
苦笑だけで何となく場が流れてしまうことを恐れて、私は萌太くんの頬に手を添えた。必死だった。
「笑わないで」
「………」
「笑わないで、いいよ」
「………」
「助けて、って言ってごらん」
雨音はぽつぽつと、機嫌よく振っている。それをはじめて私はわずらわしく思った。
泣いてほしいと、思った。
泣けないでいる不器用なこの人の代わりに、せめて雨音に泣いてほしかった。
「…
姉?」
萌太くんは少し驚いたようだ。
私があんまり真剣な顔をしていたからかもしれない。不思議な生き物を見るように、わたしを見ている。
ややあって。
真面目な顔で自分を見つめる私の視線が余程痛かったのか、目をそらしたのは萌太くんだった。
「…ありがとうございます。でも、僕が辛い、って言っても、誰かに助けを求めても、何にもならないですから」
「なるよ。何にもならないなんてこと、あるはずがないんだ」
自信を持って言う私に、萌太くんは素朴に返答した。
「たとえば何がどうなるんですか?」
「…う。それはまあ、具体的にはわからないけど…と、とにかく萌太くんが弱音を吐いたら、何かがどうにかなるんだよ」
「ならないと思いますけど」
「なるよ。世界だって滅ぶよ」
「滅んだら困るじゃないですか」
「…じゃあ、訂正する。萌太くんが弱音を吐いたら、」
「吐いたら?」
「私が喜ぶ」
「………」
虚をつかれたようだ。
不思議そうに首を傾ける。
「…ですか?」
「ですよ」
きょとんと不思議そうな顔をした後、花がほころんだように萌太くんは笑った。本当に綺麗な、微笑だった。
この笑顔のためだったら、世界も喜んで滅ぶだろう。
そんな馬鹿馬鹿しいことを本気で思ってしまえるくらい、綺麗な笑顔だった。
「…
姉は、いいですね。本当に」
独り言のようにそう言って、雨で額に張り付いた髪をはらう。
萌太くんは、自分の頬に手をあてている私の手を、長い指でそっと握った。
「そうですよね。ひとりは、悲しいことですよね」
「うん。…そうだよ」
「そうですね。本当に」
それだけのことが、こんなに難しいんですね、と、萌太くんは言った。
私は彼の言葉を受け止めた上で、まっすぐに質問する。
「萌太くん、寂しい?」
「はい」
こくんと、素直に頷いた。
たかがそれだけのことで、物凄く萌太くんが可愛く思えるのが不思議だ。不意に抱きしめたくなったけど、ここは外なので我慢する。
萌太くんは、初めみたいにどこか暗い、悲しそうな雰囲気をもはや漂わせてはいなかった。むしろ少しご機嫌に思えた。
そのことに安堵して、私はやっと、萌太くんから手を離す。
「
姉は、僕を甘やかすのが本当に上手ですね」
「…え…そうかな?」
「はい。今とっても甘えたい気分です」
「いいよ、萌太くんだったら。せめて思いっきり甘やかしてあげるから」
「…後で後悔しても知りませんよ?」
「え?何か言った?」
「いえ。聞こえなかったならいいです」
くすくす笑う萌太くんに首を傾けて見せてから、何だかおかしくて、私も笑った。
2人、ずぶぬれになった者同士が向かい合ってこんな風に喋っている光景は、見るものにとっては不思議だろう。必死すぎて気づいてすらいなかった。萌太くんは笑っていて、それがとても嬉しかった。