それはまるで今も昔も変わらない悪質な夢だった。


ざざ。ざざ。風がどこか遠くで梢を削っている。

まるで悲鳴をかき消すかのような、音。音。音。


どうせならこの悪夢も削ってくれればいいのに。


ざざ。ざざ。ざざ。ざざ。ざ。


静寂が耳に痛い。五月蠅い。

あまりに普通すぎて吐き気がする。


胃にタアルを流し込まれたようだ。重い。重い重い重い重い重い。


思い。



思すぎる、この世界は。





「悲しいんですか?」





黒は笑った。


こんなに美しい世界で、何を悲しむのかと、諭すように笑った。


違う。ぼくは悲しんでいない。


首を振る。



ただ、まるで何事もなかったかのようにすべてを忘却させる世界を、ぼくは優しいとは思わないだけだ。




「何がおかしいんですか?それとも狂っているんですか?」


夢の中の存在は嘲笑するかのように言う。


馬鹿げてる。





何がおかしいって、君がここにいないことがおかしいんだ。だってそうだろう?





笑った。


嘲笑を含めて呟いたつもりだったのに、泣き言にしか聞こえない自分の声が、不快で仕方なかった。








死願









「相手を悲しませずに、記憶の中に残る手段って無いんでしょうかね」


いきなり。


本当になんの前触れもなく、萌太くんはそう言った。


「…は?」


「だから。もしも自分がいなくなる時が来たら、の話ですよ。上手いこと相手に傷を残さずに、けれど忘れられないくらいの位置に自分を持って行くことは、不可能…でしょうか」


「…萌太くん、家出でもする予定ができたのかい?何か不満があるなら聞くけど」


「違いますよ。何が楽しくてあんなもの二回も繰り返さなきゃならないんですか」


不服そうに意義を唱える。そう言えばそうだった、そもそもこの少年は一度家出を体験している。

それも年頃の子どもがするような可愛らしいものではなく、本格的な家出を、だ。


しかし、家出でもなく“いなくなる”などと言ったら死別以外にないわけで。

仕方なく、ぼくは肩をすくめて答えた。


「縁起の悪いことを言うんじゃないよ、萌太くん。言霊という言葉を知らないの?」


「不吉は死神の代名詞ですよ、いー兄。縁起なんて死神がいちいち気にすると思いますか?」


「…いいけどさ、別に。でも萌太くん、なんでまた急にそんなことを」


萌太くんは窓に肘をおいて、身体を乗り出すようにしてもう片方の手で煙草を吸っている。ずいぶん吸いなれた様子であることからしても、崩子ちゃんの禁煙運動は、効果を現さなかったらしい。


「んー…急、ってわけでもないんですけどね。こんなの、ずっと前から考え続けてきたことですから」


「………」


「だって僕、崩子より後に死ぬ気、ないですし」


煙草をもった手のひらを顔から離して、それから、萌太くんはちょっとこっちを振り向いた。一応部屋の中に煙草の煙が入らぬよう、注意はしているようだ。


「どんな理由があっても、僕が死ぬのはあの子より先ですよ。病死だろうが何だろうが、それだけは絶対です」


「何をもってそうまで言い切れるのか、ぼくなんかからしたら逆に不思議だけどね…」


「まあそういう話はいいじゃないですか。で…いー兄はどう思います?」


「どう、って言われても困るね。そんなの無理に決まってるだろ。悲しいとか憎いとか、そういう理由がないとすぐに忘れるさ。人間なんだからね。まあ、萌太くんに崩子ちゃんに憎まれるほどに嫌われる覚悟があるなら別だろうけど?」


「…崩子に嫌われちゃったら、僕、生きていく自信ないです」


萌太くんは至極真面目に答えた。


彼がシスコンなのはすでに周知の事実なので、無視してぼくは続ける。


「だったら無理だね。諦めなよ」


「…ですかね。難しいです」


「そもそも、萌太くんは死なない。そうだろ?だったらそんなことを考える必要はないさ。もっと年とって、医者に余命を宣告されたあたりから、ゆっくりまったり考えたらいい」


年をとった萌太くんなんて想像するのすら難しいところだけど、ぼくはそう言った。

萌太くんはぐりぐりと窓枠に置いてあった灰皿に煙草の灰を押し付ける。ちり、と焦がすような赤が見えた気がした。火は消えているはずだ、と思い直して、ああ、夕日と重なったのかと納得する。


「いー兄」


「何?」


「じゃあ、いー兄はどうですか?」


「………え?」


振り返る、萌太くんは変わらず微笑んでいる。


「いー兄は、僕が死んだら悲しいですか」


「…悲しいに決まってる」


「悲しまないで下さい、って言ったら、悲しまないでくれますか?」


「…………」


何を言っているのだろう。

そんな仮定には意味はないというのに。


「無理なんじゃないかな。悲しいものは悲しいから」


「そうですか?」


にっこり微笑む萌太くんの顔は、まるで悪戯を思いついた子供のそれだった。

首を傾けて、どこか愉快そうに、唇に指を押し当てるように笑う。


「嬉しいですけど、困りますねえ。死ぬに死ねないじゃないですか」


「死ななきゃいいだろ」


「ふふ。人間いつかは死ぬんですよ?」


「…そんなの、今考える必要なんかないとぼくは思うけどね。その時になったら考えればいいじゃないか」


「無理ですよ。死は予測がつかない。僕には、僕がいつ死ぬのかわかりません。こういうのって、気持ちが悪いんですよ…気持ちが悪いというよりは、気分が悪い、って感じですか」


僕が苦手なタイプの不安定さなんです、と、萌太くんは言う。

それから、不意に、声のトーンを落とした。


「ねえ、いー兄」


「…何かな、萌太くん」


「僕はね、家族ができたことが、とっても、とってもとってもとっても、心の底から嬉しかったんです。嬉しくて仕方なかったんですよ」


「ふうん。どうして?」


「いつどこで僕が死んでも、妹は大丈夫だと思えるから」


思わず言葉を失くす。

視界の端を黒が躍ったと思ったら、萌太くんはまた、窓の方を振り向いていた。

血の色に似た、夕日が沈む。


「もともと、僕は家族を捜していました。小さな時から、ずっと。僕の父親は最悪の人間でしたけど、でも、だからこそちゃんと心で繋がり合えるような、家族が欲しいと思ってました」


「…そう」


「必要だったから、です」


「…必要だったから?」


「あの子のために必要だったから。もちろんそれだけじゃなくて、僕が憧れていたってのも、あるのでしょうけど…そうですね、初めはそうだったと思います。崩子のために、家族が必要だと」


「………」


「崩子は愛した者を大事にしようとするけれど…僕は、大事なものしか愛せない、さもしい死神なんですよ。完全に打算が働いていました。崩子は…あの子は、一人で生きていくにはあまりにも優しいですから。僕が死んだ時に、支えてくれる家族が欲しかったんです。家族がどういうものなのか、知りもしないでただ夢見ていただけ、なんて、愚かとしか言いようがありませんけれど…まあ、子供の夢なんてえてしてそんなモノですからね」


「あえて突っ込ませてもらうとしたら、萌太くんはまだ子供だと思うけど?」


萌太くんはそれに答えず、ふふ、と軽く笑っただけだった。


「でもね、いー兄。唯一の誤算があったんですよ。家族を作って」


「へえ。何?」


「妹を一人にするのが怖くて…妹を置いたまま死ぬのが怖くて、僕が死んでも妹が大丈夫なよう、大事な人を多く持ったのに、」


「に?」


「余計に、死ぬのが怖くなりました」


「………」


「本末転倒、です。まさかこんなにみんなを好きになれるだなんて、思ってませんでした」


萌太くんは窓に手を置いたまま、言った。細い背中は微塵も震えていない。笑っているかのような口調で言った言葉に、けれどぼくは言いようのない違和感を感じた。


違う。それは、笑いながら口にしていい台詞ではないはずだ。


「萌太、くん」


「いー兄。僕は、ずっと知らなかったんです」


「………」


「死ぬことが怖いと思えることが…こんなにも幸せなことだなんて、思ってもいませんでした」


「………」


「僕が死んだら、きっとみんな悲しんでくれるんでしょうね。でもそれが、僕には重くて痛い。悲しんで欲しいわけじゃない。けれど忘れてくれと言えないくらいに、僕もみんなのことが好きです」


「萌太くん、それは悪いことじゃない。そんなことを君が気に負う必要はないよ。死んだ後のことなんて、人間が考えることじゃないんだ」


「かもしれませんね。けれど…忘れて欲しくないだなんて、なんて愚かしい妄執なのかと」


思いますよ、と、萌太くんは言う。

唇の端を持ち上げるように笑った。




「まるで死に願っているみたいで」



死に願う。


死願。





…それは、

それは、まるで、



「…変な話をしちゃいましたね」



声を失くしたように黙り込むぼくに、萌太くんは軽く声をたてて笑う。しゅっ、と音がしたと思ったら、萌太くんがいつの間にかまた煙草を手にしているのが見えた。

手にはしていても、口には銜えない。何かを考えるように、戸惑って指先が動いた。



戸惑って。

結局萌太くんは、煙草をころんと転がすように、置いた。

振り向く。


「いー兄」


「…何だい」


「いー兄は、僕が死んだら悲しいですか」


「悲しいよ」


「悲しまないで下さい」


「…無茶を言わないでほしいんだけど?」


「悲しまないで、下さい。いー兄が一番大事な位置にいるんです」


「…何がだよ」


「崩子が大変なとき、守れるのはいー兄しかいないんですよ」


感情の抜け落ちた声だった。珍しい、と思って、彼を見上げる。萌太くんは、軽く首を振った。


ぼくなんかにそれほどの力があるとは思えない、そう言おうとして、何となく押し黙る。

今そんな事を云うのは、酷く場違いな気がした。


微笑んでいるのに、どこか寂しそうなこの少年が、不意にとても憐れに思えて息を呑む。


萌太くんは繰り返した。


「悲しまないで下さい」


「………」


「僕が死んだその瞬間に、僕のことを忘れても構いません。どうしてくれても構わない。ただ、悲しまないで下さい」


「…そんなこと言っても、仕方ないだろ。思ってしまうものは仕方がない」


「だったら、」


だったら、と、迷うように唇が動いた。


「だったら…悲しまない程度に、強くなって下さい」


「だから、それが無茶だって言うんだよ」


「いー兄」


萌太くんは言う。

その声は、わずかに、本当にわずかに…震えているように聞こえた。


「嘘でもいいんです」


「………」


「約束して下さい」


「…わかったよ。約束する」


ぼくは言った。

じわじわと太陽が殺されていく、その凄惨な光景が萌太くんには嫌に似合う。


早くこの話題を終わらせたかったからかもしれない。

単に、重苦しさに耐えきれなくなったからかもしれない。

理由はどうでもよかった。



ぼくは、承諾した。



「ありがとうございます」


萌太くんは相変わらず微笑んでいたけれど、やっぱりその笑顔はどこか、悲しそうにも見えた。






























そうして、彼は死んだ。

















まるで悪質な夢のように血も肉も撒き散らして死んだ。


ざざ。ざざ。重い鉄を削る音。

まるで悲鳴をかき消すかのような、音。音。音。


静寂が耳に痛い。五月蠅い。

あまりに普通すぎて吐き気がする。


胃にタアルを流し込まれたようだ。重い。重い重い重い重い重い。


思い。


思すぎる、この世界は。




でも。


けれど、それでも。




戯言だとしても、ぼくは、この瞬間を悲しまない。



彼は怖いと言った。覚えている。忘れてなんか、やらない。





死ぬのが怖いと言いながら、あの瞬間、冷たい路線の上で見事に笑ってみせた彼を。





「…君に選ばれたことを誇りに思うよ」





まるで何事もなかったかのようにすべてを忘却させる世界を、ぼくは優しいとは思わない。



だから覚えている。



悲しむ暇も、ないほどに。





「成長してやる」












…本当に、君は凄い。


君に最大級の敬意を払うよ、萌太くん。


だからこそ、








ぼくは、停止するのをやめよう。


















死んでも願い続ける。



それが、彼の死願なのだから。
















アトガキ


萌太くんを幸せにしたくてたまりません、という心情に素直に書きました。

だっていーたんが「成長してやる」って言ったの萌太くんの死後なんですよ…あれはちょっと嬉しかった…

正直「萌太くんが死んでもぼくが悲しむのはおかしい」的なことをいーたんが言った時は「もっと悲しめよ」と思ったものですが(コラ)

こういう風な解釈すれば…萌太はもっと幸せかなあ…とか…(泣きながら)

ていうか素直な話、いーたんには少しくらい悲しんで、っていうか萌太くんの存在を重くとって欲しかったんだ

ていうか誰でもいいから彼の死を重く受け取ってくれないだろうか。

あんな綺麗な死にざま晒せるのなんて彼くらいしかいません!(超本気)