ここはただただ暗い。

暗くて深くて、悲しい箱庭。

 

箱庭の主は語る。

…哀れな小鳥を飼いましょう。

大事に大事に愛でるために。

小鳥は綺麗に泣くでしょう。

とらわれの我が身を嘆くでしょう。

 

けれども、…広げられた翼は刈ってしまえばいいのです。

 

伸ばした腕を切り落とし、

ただただ悲痛に身を浸し。

 

 

 

そう。ここは悠久の箱庭。

 

ただただ悲しい箱庭。

 

 

 

 

 

 

 

…捕らわれたのは、

 

君か、僕か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からたちの道

 

 

 

 

 

ああ、いつだったか…酷く綺麗で残酷な物語を聞いたな、と僕は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

暗い空間。

どこまでも闇に満たされた、部屋の中。

…僕は何をするでもなく何をしようと思うことすらもなく、ただ立っていた。

 

こんな静寂は久しぶりだった。深く息をついて、唇を引き結ぶ。

思い瞼を持ち上げて視線をスライド。僕の体の真正面…見間違うはずも無い。

この世界で唯一の、僕以外の住民の姿がそこにはあった。

 

闇が四角く刈り取られたような部屋の中、君は、手を鎖に繋がれて拘束されている。

 

まだ顔つきに幼さを残した、けれど少女と呼ぶにはもう遅いくらいの女の子。

僕の目の前、細い腕を鎖に囚われたまま、投げやりに上半身を投げ出すようにして座っている。

長めの髪が肩のところでゆったりと波紋を描いていて、普段の彼女なら動くたびにこすれていい音がしていただろうにと、僕は思った。今はもう彼女が全く動かないために黒い糸の塊にしか見えない。

 

…けれども、不思議と、目をそらすことは許されない、そう思える光景だった。神聖とかそういうのではないけれど、まるで見てはいけないはずの神の顔を垣間見たような、妙な感覚をひきおこす。

闇に溶ける少女の黒髪に、もしかしたらもう遅すぎて、全部闇に呑まれているのではないか、と思う。

懸念を嘲笑い、闇はただ滞っている。気配。生きるものを包む、生の色を奪う、黒一色。闇色の同朋。

 

軋む空気。意味もなく息を吸い込むと、ほとんど機能を果たさない肺を冷たい空気が撫でていって。

 

言葉にならない想いに突き動かされるように僕は彼女の前に膝をついた。

 

 

「…佑月、」

 

 

変わり果てた君の名前を唇に乗せる。

君は、…佑月は何も応えない。

 

滞る大気は腕に足に頬に耳に絡みついてくるようだ。まるで動かない、現実味の無い部屋は沈黙を守りつづけている。彼女も僕を見ない。何を言おうとも、たぶん、答えはしないし応えもしない。

 

思わず目を伏せる。

…彼女の姿が、まるで僕に対する罪の象徴みたい、で。

 

目の前には人形のような君。触れることすら遠いことのように思わせる姿そのものは、たしかに佑月のものだ。

けれど、それ故に。本当の佑月を知っているからこそ、この光景がいかに異常なのかが僕にはわかる。

 

―――違う、こんなのは。

 

虚ろな瞳は何も映さない。その唇から漏れるのは、…もう、僕の名前じゃない。

あたりまえだ。僕がそうさせた。

なのに、なによりも、それを悲しいと感じている自分がおかしかった。

彼女をこうしたのは自分で、他のなんでもない。なのに、そうした本人が悲しんでいる。

 

 

なんて、馬鹿馬鹿しい。

悲しむ権利なんか僕にないのに。

 

 

…わかっている。僕は全部、理解している。けれど。

 

 

「…佑月」

 

吐く息をなくした肺が悲鳴をあげる。

 

少女は何も応えない。身じろぎすらしない。

生の色を覆い隠したその目は何も無い空しか捕らえず、

部屋に響く微かな呼吸の音だけが、彼女が生きていることを示していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女は、…佑月は僕がこの場所に捕らえた存在だった。

 

 

いつだったろう。僕は思い返す。

今はもう遠い昔のことだから、おぼろげにしか覚えてはいない。

どんな出会いだったのかすらも。

 

ただ、つれてきた理由はとても安直だったことだけ。それだけは、皮肉にもはっきりと覚えている。

…単に暇つぶしの何かが欲しかっただけだ。

僕は独りでいることにあまりに疲れ果てていたから、誰か傍にいてくれる人がほしかった。

 

だから僕は君を自分の城に住まわせた。

適当に、一番大きいと思われる部屋を整えて。

 

はじめに僕は言った。

佑月は吸血鬼って種族で、太陽の光にあたると溶けて死んでしまうから…だから、この部屋にかくまってあげたんだよ、と。

そう教えて、部屋に日の光は絶対に入らないようにした。

夜になっても外に出そうとはしなかった。

 

 

そう。

…僕一人の寂しさをまぎらわせるのに、君はとても都合のいい存在だったから。

僕は君を利用した。それだけのために閉じ込めた。本当に、それだけの理由でしかなかった。

 

けれど、食事を運んで、話をして、ずっとずっと一緒にいて。

彼女のことを、…ただの暇つぶしの相手だなんて、思うことすらできなくなってしまった。

 

 

…いつだったろう。

佑月に心惹かれている自分に気がついたのは。

 

初めは単純に、ヤバイなと思った。

もちろん、人を好きだとか、失いたくないだとか、そういう口が端から腐ってしまいそうな台詞を聞いたのは初めてではない。言ったことだってあったかもしれない。

けれど今まででそんな感情に内面まで犯された事はなかった。

 

それどころじゃない。

嬉しいとか悲しいとか、そういう感情に似た何かすらもを感じたことのない僕には、それはほとんど恐怖にも近い焦燥でしかなくて。

何度も自分に言い聞かせた。帰りを待つ人がいることを、どうして嬉しいと思えるのだと。

 

…佑月は僕と同じ孤独な存在で。

それを知っていたからこそ、僕はそれにつけこんで利用した。

それにしたって別に彼女を思っての行動じゃない。むしろ正反対だ。

僕は僕の為だけにそうしたにすぎなかった。面倒なことになれば、いつだって切り捨てるつもりでいた。

 

それが、どうだ。

いともあっさりとひっくり返されてしまっている。

僕は今ではもうすっかり佑月に依存していたし、はっきりと、今の立場を失いたくないと思うようにすらなっていた。

 

不可能か可能かでしか分別の無かった僕はもういない。

佑月を殺せと、王様か何かに短剣を渡されたら僕は喜んで自分の胸を貫くだろうし、佑月を切り捨てることは可能だが不可能だとはっきり言える。

 

いつだってそう。気が付いた時には折り返し地点はとうに過ぎ去った後だ。

 

 

遊ぼうと誘われた時のくすぐったさも、いじわるして泣かした時の居心地の悪さも、どうしてか酷く心地よくて、そう思っている自分がひどく不可解で。

不可解だったけど、その感情すら確かなもので。

独りじゃないことがこんなにも自分を安堵されるものだとは、僕は知らなかったから。

幸せってこういうのを言うのかなぁなんて、…曖昧な感覚でしかなかったけれど、感じていた。

 

僕が彼女の世話をして。

僕には彼女が必要で。

 

たぶん、彼女にも僕が必要だった。

 

 

 

…そんな関係を、今までずっと、続けてきたと言うのに。

 

 

 

あっさりと、実に簡単に壊れてしまった。

笑ってしまえるほどに、…今までかたくなだと信じて疑わなかったモノが。

僕は思い出す。

 

「ここから出して」

彼女がそう言いだしたのは、…彼女がもうすでにおかしくなった後だった。

ずっと前から思ってたことなんだろう。

彼女は優しいから、ぼくのことを気遣って今まで言い出さなかったに違いない。

けれど、それでも止まらなくなった彼女の思いは、精神の異常をきたすという方向に向かってしまった。

 

彼女は僕の服を掴んで、何度も言った。

「ここから出して。私は外の世界を見てみたいの。お願いだから…ここから」

出して。出して。出して出して出して出して出して出して出して。

ここから。

 

まるで壊れたテープみたいに、何度も再生される声。

 

「佑月、どうして」

 

僕は確かその時、こう言った。

 

「どうして、外に出たいなんて、言うの」

 

ここには僕がいる。君が望むものはなんだって用意してみせるし、…ここにいれば君は死ぬ事はない。外に出たらすぐに死んでしまうというのに、どうして外に出たいなんて言うのかと、僕は何度もそう繰り返した。胸が騒ぐのを、止められなかった。

 

彼女はけれど、僕の訴えなんかに耳を貸さない。

 

「ここはもう嫌なの。たとえ死んだっていい…私は、空を見てみたい。輝く水面を見てみたい。柔らかな朝日を感じてみたい。…世界を覆う大気に触れてみたいの。流れる世界を感じたい」

 

そう。ここは何も変わらない。

流れる水もない。眩しい日の光もない。うつりゆく季節もない。生の色など欠片も無い。

いつだって、視界を埋めるのは光沢のない壁ばかり。見回せどそこに空は無い。まるで時すらも止まってしまったかのような、そんな…閉鎖空間。

 

 

…私は外に行きたいのだ、と。

 

たとえ死んででも、外を一瞬だけでも感じて死んでいきたいのだと。

 

佑月は言った。

 

 

今でもその時の感覚は、はっきりと…本当に嫌になるほどはっきりと覚えている。

空を見たいと語る佑月に、僕はそんな馬鹿なこと、とは言えなかった。

佑月がそう願うならばそれでいいのかもしれないな、と思っただけで。

…彼女をこんなに傷つけたというのに心は酷く冷めていて、それがとても不思議だった。

 

僕はそれ以上何も言う気にならなかった。

 

心は自分でもおかしく思えるほど無反応だった。

絶望と呼ぶには生温く、けれど心を乱すには十分な程度の虚無感にビリビリと心が痺れたみたいだった。

落胆したわけではない。

少しだけ安心も、していた。

佑月は空を掴もうとがむしゃらに腕を伸ばすことを止めていないんだと、わかったから。

 

そう、

…たとえ届かないとわかっていても、人は空に手を伸ばすものだ。

伸ばすこと自体に意味があるのだといわんばかりに、たとえ端から見た自分がどれだけ憐れで間抜けだとわかっていたとしても、彼らは懸命に腕を伸ばす。

時には悲劇を、時には喜劇を巻き起こしながら、それでも彼らはもがいて、あがいて…腕を伸ばして、届きそうも無い空を、無を切る腕を、けれど愛しそうに見つめている。

 

 

僕は、誰よりわかってる。

 

 

希望を掴もうと腕を伸ばすことも、希望を探し望みを欲してただ願い続けることも、たぶん、弱い生き物である君には、とてもとても大切な事。

 

 

そうだ。僕はわかっていた。わかっていたんだ。

そのはず、なのに。

 

―――心は何も感じないかのように平静で冷淡でまさに静寂そのものだった。それも本当だけれど。

 

僕は…酷く気だるいような心をもてあましながらその時確かに、

縋るように彼女の服を掴んだ自分の手が…酷く震えているのはどうしてだろうと、ぼんやり思っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「佑月」

 

僕は手を伸ばす。けれど、…頬に触れる寸前で、僕はその手を引っ込めた。

触れる資格なんてあるとでも思っているのかと自分に言い聞かせる。

 

引き戻した白い手のひらが目に入る。血の気がない、まるで石膏みたいに白い。

自分の顔なんか見たくも無いけど、たぶん、この手の平と同じく真っ白な顔なんだろう。想像して思わず笑う。笑うけれどその笑みは好意とか楽しさとかおかしさからくる笑いなんかじゃなかった。

自嘲の笑みだ。

…僕は自分の手が嫌いだ。吐き気がするほど、僕は僕が大嫌いで仕方なかった。

 

 

「佑月」

 

僕は名前を呼ぶ。精一杯、僕にもてうるだけの感情を込めて。

 

「…佑月」

 

けれど。

彼女は応えない。

 

僕は、またおかしくなって笑った。

 

ああ、そうか。

…もう、僕の為に歌ってなんかくれないんだね。

 

 

「わかった」

 

僕はそうとだけ、言った。ひくりと彼女の腕が震える。

 

笑う。…たぶん、笑いの表情にはなっているとは思う。ほんとうは、心の底は絶え間なく痛んで悲鳴をあげていたけれど、僕は笑わなくちゃいけないと思ったから、無理矢理に唇の端を吊り上げた。

 

その一言を唇から搾り出すのに、一体どれくらい迷っただろう。

けれど、…どうしても言わなくてはいけない。これだけは、僕の意志でしたい。

 

君を檻から解き放つのは、きっと、君を檻に閉じ込めた僕の役目。

 

 

うまく笑えているだろうか。それだけを不安に思いながら、僕は彼女を見下ろす。

 

 

 

「外に、…出してあげる。佑月」

 

 

 

 

 

 

    **************************************

 

 

 

佑月はすぐに反応を返した。大げさなほど、がばりと顔をあげた佑月の瞳にはもう人形みたいなところはない。ちゃんとした意志のこもった瞳だった。

 

いつもの佑月だ、と思って、僕は少しだけ安心する。…まだ間に合った。

 

彼女はしばらく何も言わなかったが、ややあって恐る恐る唇を震わせた。

 

「…本当に?」

 

僕は頷いて、その手にかけられた鎖を…少し戸惑ったけれど、外した。

ちゃり、と音がする。鉄のかたまりは、彼女の腕をあっさりと開放して地面に転がり落ちた。

僕は最後の望みを託して言う。

 

「もう、決めたんだね」

 

「…うん」

 

素直に佑月は頷く。またちくりと心が歪んだ。

 

「…わかった」

 

君が決めたのなら、僕はそれに従おう。

うなずいて、立ち上がる。

 

「ごめんね」

 

視線が合うと、彼女は言った。

 

「ごめんね」

 

「どうして謝るの」

 

首を傾げてみせる。

 

「僕には謝られる覚えはないよ」

 

「…勝手に、死ぬから。私の事情で、あなたを置いてくから」

 

佑月の表情には翳りがある。

…そんな顔しないでいいのに、と思った。

 

 

佑月は何も知らない。

僕の葛藤も、醜さも。

 

知らないんだ。

 

…僕は何も語らない。

 

 

 

「ね、佑月」

 

「?」

 

「ここで僕が話したこと覚えてる?」

 

「…、うん、たくさん話したね」

 

「そうだね。僕は童話とか、結構好きだったな」

 

「うん。私はあなたが語る話を聞くのが楽しかったよ。すごく」

 

彼女はもう死ぬ気でいるのだろう。覚悟を固めているのかもしれない。まるでいとおしい気持ちを抱きしめるように、かみしめるように彼女は言った。

 

僕は笑う。笑って、言う。

 

「…からたちの道って、話」

 

しん、と声は闇に溶けて消えた。

 

「覚えてる?」

 

佑月はふるふると首を振る。

 

「題名までは、覚えていない。なんで?」

 

「いや、覚えていないならいいんだ。ただね、さっきからずっと、」

 

言葉を切る。目を閉じる。開ける。

 

「…頭に染み付いて離れないんだ。その物語が」

 

そう。忘れられないんだ。

 

「…?どうしたの?」

 

「いや。いい」

 

首を振る。唇の端を吊り上げる。さぁ、こっちだよ、と、彼女を促す。彼女は何か言いかけたけど、唇を引き結んでついてくる。

 

歩きながら、僕は思い出していた。今はもういない、唯一の相棒が好んで話してくれた話。

確か、母が聞かせてくれたのだと、彼はそう言っていたか。

僕にはぴったりな話だと、ずっと思っていた。無意識に頭の中で呟く。まどろんだような意識に、その話はするりと染み込んでくる。

 

 

…それはひどく残酷で、どうしようもなく綺麗な物語。

 

 
















『猫は、小さな鳥をかごの中にしまいこんだ。
絶対出られないような、からたちの草の檻に。
だからと言って、猫は、小さな鳥を痛めつけたりはしたくなかった。
ただ、もう死んでしまう自分にだけ、歌って欲しかっただけなのだ……』










 

 

 

「…思い出すね」

 

僕は言う。

 

「はじめ、君が小さかったころも、こうして僕の後ろについて歩いてたものだったんだけど」

 

…今では、こんなに大きくなったんだ。言って、彼女の頭にぽん、と手を置く。

佑月の頭はだいたい僕の肩くらいの位置にあった。

 

「そんなの当たり前じゃない。私だって成長したんだから」

 

そう。彼女は成長した。

見かけの年齢で言えば、僕と同じくらいじゃないかなと思う。小さかった体は面白いほどに成長して、今では普通の女の人になってる。

 

僕は彼女の頭にのせた手をそのまま移動させて、彼女の髪を手にすくった。幾分は零れ落ちるけれど、それでも手に残った髪の一房は、艶やかな色を見せている。綺麗な色だな、と僕は思った。自分の髪の色を見たことはないけど、…佑月の髪の色は少し緑がかっていて特殊だ。

 

僕は立ち止まって視線を上げた。

 

「ねぇ佑月」

 

「ん?」

 

「佑月は僕のこと好き?」

 

「うん。大好き」

 

「そう」

 

ありがとう、と僕は言う。その言葉に意味はないとわかっているけど。

 

彼女は儚げに笑う。僕も、たぶん儚げに笑ってると思う。

 

「僕も佑月のこと好きだよ」

 

僕は言う。言って、無理矢理微笑む。

 

…全く。本当に、嘘偽りなしに、なんて道化だろう。

佑月も僕も、愛を口にするにはあまりに幼稚で、恋を語るにはあまりに残酷だ。

 

知ってるさ。

…彼女に好かれる権利も資格も僕にはない。

 

 

今も止まれない物語が僕に語りかける。

 

 

 

 

 

 

『しかし、そんな猫の想いとは裏腹に、鳥から伺えるのは悲しみだけ。
どんなに、おいしい餌を与えても…、どんなに笑顔で接しても…
絶対に、笑うことが無い。』

 

 

 

 

 

 

 

…胸の奥が痛くて、熱い。まるで傷が膿んだように、熱を帯びてそれは僕を責める。

泣き叫びたいと願った。けれど、この感情につける名前を僕は知らない。知ることを許されていない。

 

神に許しをこう口は僕にはない。助けを求めて伸ばした腕はすでにもう切り落された。泣こうにも涙は乾ききって、翼は空を捉えない。

今もなお、僕が僕を責めていて。

 

 

…わかっているんだ。僕は誰より、理解している。

 

 

狂いに狂い、曲がりに曲がった僕はもう、

…光を探そうともがくには、あまりに醜い。

 

神は僕を認めない。

僕も世界を認めていない。

 

そんな僕に、…誰も愛を語れない。

 

 

わかってる。

わかってるよ。

 

僕にははじめから救いなんてない。

 

狂いに狂い。

叫びに叫んで。

もだえ苦しみ笑って嘆いて死ぬ。

 

初めから、思ってないさ。

僕の汚れた手に何かをつかめるなんて。

 

 

 

 

 

そう、だから。

今も終われない物語が僕に語りかける。

 

 

 

 

 『そうして、何日も猫は、考え苦しんだ
今、開放すれば、この鳥は、また美しい声で鳴いてくれる。
だけど、逃げてしまう。
逃げてしまえば、もう二度と、猫の元にもどってくることはないだろう…』

 

 

 

 

佑月は僕に従って、暗い部屋を横切った。

 

四角い窓がある。この部屋で唯一の窓だ。かなり大きい窓は、一度も開けたことなんかないけれど、つくりはとても凝っている。

さびてないだろうし、たぶん彼女の力でもあけることはできるだろう。

 

「ここからが一番、外の景色が綺麗だと思う。ドアもあるんだけど、錆び付いちゃってるし…佑月の力じゃ開けれるか自信ないから」

 

彼女は頷き、けれど、喜んですぐさま外に飛び出すなんて事はしなかった。

窓によってその前に立ち、そろりと手を伸ばして…触れる寸前で、ふととどめる。

 

「あのね」

 

そして、急に言った。僕は出来る限り感情が声ににじみ出ないように気をつけて、「何?」と返す。

佑月はしばらくだまっていたけれど、急に心を決めたみたいに、振り返った。

 

「私がいなくなったら、さ。その、あなたはどうするの?」

 

「どうして?」

 

「今まで、ほとんどまる一日一緒にいたでしょ?。だからその、これから何をするのかなーって思って」

 

「何もしないよ」

 

何もできないし、という言葉は心の中に留めておいて、僕は言った。

佑月はすまなさそうに顔を伏せる。

 

「…ごめんね。私がいなくなったら、やっぱり寂しいよね。ここに住む人、いなくなっちゃうし」

 

ごにょごにょと佑月は言う。この場になって僕のことを心配できるあたり、佑月は凄いな、と僕は本気で思った。嬉しい、とも感じた。

 

彼女があんまり普通の自分を演じようとしているので、いじらしいなと思う。同時にすごく佑月らしいな、とも。最後であろうとなんであろうと湿った会話はしたくないのだろう。

 

佑月が望むのならそのとおりにしようと考えて僕も出来る限りいつもと同じ口調で言う。

 

「大丈夫だよ。心配しないで」

 

「…うん」

 

佑月は何かを考えるためか、しばらく沈黙した。僕も彼女の思考を邪魔しないように、何も喋らずにじっと彼女を見つめる。見つめていると、これが最後だという感慨が胸を襲って、なんだか凄く痛かった。

 

「あのね、」

 

「うん」

 

「…、お願いがあるんだけど」

 

「ん?」

 

「私が消える時は、…あなたに抱いてて欲しいの。怖いから。えっと、…いい?」

 

「公認で抱きつけるのに、この僕が断ると思う?」

 

「…ありがと」

 

ツッコミがくるかと思っていたのに、案外あっさりと佑月は言った。あれ、と僕は思う。

佑月は震える手をなんとかしようとしているらしくて、右手で左手を抑えていた。

どうかしたのか、と一歩前に僕が踏み出したとき、

 

ふと、目が合った。

 

笑う。

 

 

 

「…佑月。どうして泣いてるの」

 

僕は言う。

 

言ったら、余計に止まらなくなったらしく、彼女の肩が上下した。ごしごしと袖で涙を拭う。だいぶ前からたびたび泣いていたらしく、袖は水をすってもうほとんど役目を果たしていなかった。

 

佑月は泣いていた。次から次へと零れ落ちる雫が、袖の間から見えている。本人は必死に隠しているが、僕は逆に濡れてぐしぐしになった袖をとった。濡れている。

 

自然と、また僕は微笑んだ。

 

「ごめんなさい…っ」

 

「謝らなくていいってば」

 

「それでも、…ごめん」

 

 

 

私はとても幸せで。

あなたといるのが幸せだったと。

 

佑月は言った。

 

大好き。

でも、だからごめんなさい。

あなたの元から去っていく私をどうか許して、と。

 

 

 

 

 

僕は思う。

 

ああ、…もしも君が許せるのなら。

それはたぶん、許されるのだろうよと。

 

 

 

 

 

 

 

…背負いきれぬ十字架をかついでいるのは君じゃなくて僕だから。

 

 

 

 

 

サヨナラだね。

うん。

僕は頷く。

今までずっと一緒に生きてきたのにね。

…うん。

なのに別れって儚いね。

 

…知ってるよ、そんなの。

別れが公平だったことなんて、今までで一度だってないんだ。

 

…今も終幕の物語は僕に語りかけている。

 

 

 

 

 

 

 

 

『・・・・・・・・・・・・・・・・

ついに猫が、死ぬ日がやってきた。

もう、目で鳥をみることさえ、不可能になっていた。

そして、猫は、最後の決意を固める。

このからたちの檻から、鳥を逃がすことにしたのである。

見えぬ檻を力任せに、ガリガリと・・・

猫の手は、からたちの棘のせいで、血で赤く染まった。

しかし、ただ猫は一生懸命、からたちの檻を壊した。

と、綺麗な鳴き声がして、猫は、血で染まった手に、鳥が止まったような気がした。

それから、鳥は、鳴きながら大空へ帰って行った。

その時の鳥の鳴き声が、自分への歌だと猫は、涙を零した。』」

 

 

 

そうだ。

君が鳥なら僕は猫。

もがき苦しみ、ただ、死にゆく。

 

 

…君は何も知らない。

僕の葛藤も醜さも。

 

抱えられないほどの十字架を背負っているのは僕。

 

泣いて許しを請うのも。

 

 

 

 

僕は世界に求められていない種族。

闇に生きて闇に死ぬ。

生きながらにして死に惑う…吸血鬼。

 

 

光に当たって死ぬのは……君じゃないんだよ、佑月。

 

 

僕は君を欺いた。

この城に閉じ込めるために、偽りを告げて。

 

僕は怖かったんだ。

外に出たなら君はきっと僕を捨てていく。

信じる心はとっくの昔にかなぐり捨てられて僕にあるのは自分に対する恐怖と疑惑と憐憫だけ。

だから、光にあたれば死ぬのだと告げて閉じ込めて。

 

なんて憐れで忌まわしい。

 

ほんとは、君はただの人間なのに。

僕が寂しかったから。…そこには、それだけのちゃちな理由しかないのに。

 

僕は、君を欺いた。

 

そしてそれは終わらない。…終わっていない。僕は思う。

そうだ。今も。僕は自分のエゴで…僕の我侭で、君に、僕を殺させようとしている。

死ぬときは佑月が傍にいて欲しい、から。

…その願いのためだけに、僕はまた君を欺く。

 

 

 

 

 

だから僕は何も語らない。

…語れない。

 

 

 

 

 

ねぇ、佑月。

もしも、真実を知っていたら君はどうした?

 

僕の為に残ってくれて、一緒に狂気を歩んでくれたのか。

それとも、僕を見捨てて僕を殺し、日の光の元へ飛び出したのか。

 

…佑月。

 

ごめん。

ごめんね?

 

どっちにしても、僕の罪は消えない。…どちらにしても、終幕はバットエンドだって。

そんなことわかってる。僕の十字架はそう簡単に倒されたりしないって。

…わかってる、わかってるんだ。

 

わかってるから、…胸が苦しい。

 

どちらの答えも、僕は、聞きたくなんかない。

 

 

 

 

 

 

『猫は、ただ願っていたんだ。自分は鳥の幸せを願う存在でありたいって。』

 

 

 

 

 

 

 

僕は佑月の後ろに立った。肩に手を置いて、軽く抱き寄せる。窓が目の前だった。

佑月が精一杯恐怖ををこらえているのが触れた肩先から伝わってくる。

震えが止まらない小さな指先。…けれど強固な意志をもって引き結ばれた唇は、誇らしげにすら思える。

 

その手のひらが、窓枠にかけられた。

 

 

僕はそれを見て、目を閉じる。片手を目線の高さまで持ってきた。それはまだ震えていた。

 

…静かすぎて逆に耳鳴りがする。

空間を満たす空気は冷たく閉じた瞼の裏で今もまだ佑月が笑っていてあまりの空虚に泣きたくなる。

佑月が外に出たいと初めて僕に打ち明けたときと同じだと僕は思う。

あの時と同じに…今もなにかが胸の奥で鳴っている。

この感情につける名前を僕は知らない。知らないけれど…ただ、泣きたい。

僕が感じている感情は全部まがいものだ。そんなことはわかってる。けど泣きたいようなこの気持ちだけ本物であればいいと願った。

 

 

 

…もうすぐ、もうすぐ。

光が柔らかくまぶたをさすその時に。

僕は、消える。

闇に生きて闇に惑い闇に呑まれ朽ちていく。

 

 

 

ああ、今も。無意識に頭の中で呟きまどろんだような意識の中その物語が何度も響いている。白い紙が黒のインクを吸い込んでいくみたいにするりとそれは僕の頭に染みていく。わかっていた。はじめから何もかも、僕はわかっていて何一つわかってなんかいなかった。

 

 

 

だから今もまだ鳴りつづけているこの声は決して止むことはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

…それは、ひどく残酷で。どうしようもなく綺麗な物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       *************************************

 

 

 

 

 

ここはただただ暗い。

暗くて深くて、悲しい箱庭。

 

そう。ここは悠久の箱庭。

 

ただただ悲しい箱庭。

 

 

 

悲しいならば歌いましょう。

誰も聞くことのない歌を。

 

嬉しいならば踊りましょう。

相手がいないダンスをくるくると。

 

悲しいならば叫びましょう。

…嘆きは、闇にとけて消えましょう。

 

 

そう。ここは悠久の箱庭。

 

 

今や誰も無き……