まどろみがあった。酷くおぼろげで、全ての感覚がぼやけたように感じる。
――ここ、は、
疑問符だけが頭にあった。意識はいまだまどろみに浸っているというのに、思考だけが一人抜き出てぷかぷかと浮いているようだ。妙な気だるさがあった。何もする気になれない。
――何、が
起こったのか。自分はどこにいるのか。まどろみに支配された思考のなか、ふと、
声が。
「……?」
何かがいる。けれど、あたりを見回しても何も無い。不思議というよりは奇異な感覚だった。知らない声。
空間を満たす大気を、細くけれど力強く震わす声。それがどこからか闇を侵略しては届く。
歌っているのか、と思った。けれど、何を。この声はどこから鳴っている。そして誰が。…ああ、
――違う
これは…歌ではない。
「泣いてるの?」
疑問符はすでにどこかに飛んでいた。何故、と問う。どうしてあなたは泣いているの。
『悲しい、から』
声は返した。返事が返ってきたことに自分は全く驚かなかった。それがいっそ不思議でもある。
歌と同じ声音。懐かしい、と感じた。何がなのかは知らない。ただ胸が騒ぐ。
どうして、と喘いだ。あなたは誰だ。どうして僕を揺るがす。
「何が、悲しいの」
『恋しいから、悲しいの』
姿のない声は告げた。
「…恋しい?」
『あの方が恋しくて、悲しいの』
声は空気の全体を揺るがす。黙ってその空間を眺め、目を閉じる。
世界が逆転を起こすような、そんな愉快な錯覚を覚えた。
「そう、」
口から漏れた息が笑いを含む。
「…あなたが僕を呼んだんだね」
――それとも、
「僕が、あなたを呼んだのか」
いずれか、それとも両方か。
どうでもいいけれど、と思った。声はまだ泣いている。泣くなと言うつもりはなかった。慰める気もない。
声が泣く。ただ黙ったまま目を閉じてその嘆きを聞いた。渚に立っているような心地。
泣き叫んだところで誰に伝わるわけでもないだろうに。
声は恋しい、と言い、ほろほろと泣く。
『遠くから見ることしかできないならば、いっそこの身などなければいいものを』
「そう、」
『いまだ、死ぬことすらできない…!』
陳腐な嘆きだ。鷹揚に頷いてみせる。
「そう、だろうね。魔力の塊である君が死ねるはずもない」
ぴたりと声が止まった。気配のする方へ視線をやる。目を閉じると、瞼の裏が赤く燃えた。歪な色。
沈黙があった。心地いいとすら思える沈黙。
「…知ってるよ。ここは、」
笑う。
「闇だ。夜の世界。どうしてここは懐かしい感じがするのかと思ったけれど、何の事はない」
――それは、同属意識にも似た、歪な感覚。
「闇の同朋。…君は、一人夜を統べる、」
月。
そうでしょう。告げる。相手は、喘いだ。
「どこかで惹かれ会うんだろうね。君と僕は」
『ああ…』
「君はいつも嘆いている。いつだって泣いている。知ってるよ。夜を照らす君の光を、僕はいつも見てい
たから」
間があった。首を伸ばすようにして何もない空を見上げる。
死を告げる執行人みたいだ。この口から出でる音は、人を傷つけるための役にしか立たない。
…けれど。それすらもいつもの事。もはや痛みも感じなかった。
自分は壇上に立ち、憐れに怯える弱者に言う。首を斬れ。お前に希望なんてない。…いつだってその
繰り返し。おかしさがこみあげる。一番希望もなにもないのは自分のクセに。それでもいい、と、僕は告
げる。首を斬れ。
「かわいそうにね」
また、憐れにつっかえる声。
「君が恋しいと言う相手は、太陽なんでしょう」
あの強すぎる光をもって、世界を照らす太陽を。
「君は太陽とこの世界を巡っている。それこそ悠久の時を」
『ああ、』
悲観する声。
でもね、
「闇の同朋。君は、それが悲しいわけじゃない」
『それ、は』
「そうだろう?会えない会えないと嘆いているけれど、それは嘘だ。君は太陽に会うことができるんだか
ら」
『…!!』
自分が笑っていることに気が付いた。音がビリビリと、体中の皮膚を焼いている。振動が伝わり僕を揺
るがして波間に消えてく。
笑っているのか嘲笑っているのか、それは僕にもわからない。わからなくていい、と感じた。
ただ告げる。首を斬れ。
「出会えないわけじゃない。ただ、君たちは出会えばお互いを喰い合うことしかできないだけだ」
『やめて!』
嘲笑う。
…ねぇ、わかっているんでしょう。問い詰めるような、けれど淡々とした音の波。
「事実から目をそらして、楽しい?」
『やめ、』
「君は恋していた太陽を喰らって生き延びた。だから太陽は死んだ。…君が殺したんだ。なのに目をそ
らそうなんておこがましいね」
『……っ!!』
途端、首筋を細長い指が這いまわった。喉に両の手がからみつく感覚。ぐ、と歪な音をたてて僕の首の
骨が軋む。目には見えないけれど、月が今目の前にいる。そう感じた。そして僕の首を締め上げている。
「僕を殺すの?」
できないとわかっている癖に。また、笑う。見えない腕にそっと指を乗せて撫でた。月は余計に力をこめ
てくる。悲しい歌が反響する。直接脳に響く。五月蝿い。
「あきらめなよ、闇の同朋」
笑いながら、ただ告げる。
首を斬れ。
「君は拒否して欲しかったんだ。“あなたは太陽を殺してなんかいない”。そう言って欲しかったんだろ
う?慰めて欲しかったんだろう?光のもとには出れないから、僕のところに来てまで」
首から嫌な音がした。骨が砕ける音だ。とても近くから聞こえる。…けれど、構わない。
「かわいそうにね、」
見えないはずの月の姿が見えるような気がした。憐れにもがいて、余計に泥沼にはまっていく。深く、深
く。
それはとても不快な感覚だった。同属嫌悪。そういう単語がぴたりと当てはまって外れない。
五月蝿いんだよ。あきらめてしまえ。
「知ってるよ。あなたが太陽を喰らった事も」
笑う。
「次に太陽に殺されるのは、…あなただってことも」
笑、う。
「逃れられないのさ。君はもうすでに太陽を殺したんだから。それをなかったことになんてできやしない。
あなたの愛した太陽は、もう、いない。認めろよ」
空気が敵意を含んで膨れ上がった。大気が全て、刺すようにこっちを見ている。そういう感覚に肌があ
わ立つ。
『あなたは酷い人ね』
あんまり強く首をしめるから、指の先ががたがた震えていた。僕は何も言わずに上を見ている。ただ、
見えない彼女の手のひらに手を添える。ふと、首をしめていた力が弱まった。声は震えを無理矢理おさ
えつけたみたいな、どこかちぐはぐな口調で言う。
『私を壊すつもりなの、』
目で笑った。そんなわけがあるか。
「どうでもいいんだよ。何もかも」
『…そう』
首筋の感覚が消えた。月が手を離したのだ。
『あなたは私を殺しても生かしてもくれないのね』
「僕にはその資格がない」
目を閉じる。
「君を殺すのは太陽だ。僕じゃない」
『そう…』
さびしげな声。生きているモノとしての感覚がすべて抜け落ちていかのような。
『あなたに救いを求めた私が馬鹿だったのね』
まったくもってその通りだ。心の底で呟く。
「あきらめなよ、闇の同朋。君はきっと最初から最後まで救われない」
『それは、あなたも?』
「そう、僕も」
瞳の裏は、相変わらず赤い。燃え盛る炎よりもなお虚無的で、血の赤よりも鮮やかな赤。
月が泣いている。
そうさ、誰も、
「何も、逃げられやしないのさ。闇の同朋」
『……』
漠然とした世界が脇をすりぬけていく。耳元に気配。頬に手のひらの感触。月が、ふと、
囁いた。
ぎり、と歯を喰い締める。言うな。言葉は声にならなかった。
…まるで急速に海の底から海面へ引き上げられた気分だった。
「……っ」
反射的に頭を抑える。はじめに感じたのは衝撃だった。余韻に頭がびりびりする。
次に飛び込んできたのは、見慣れた部屋の光景。また疑問符が頭を飛び交う。けれどそれは、すぐさ
ま四散して消えた。目の前に見知った少女がいたからだ。
「起きたー?」
間を置いて、それから確認する意を込めて空気の塊を飲み込んだ。錆び付いたような味が口に広がる。
「…起きた」
「おはよー」
「…はよ」
意識の覚醒は一泊を置いてから来る。気だるい身体を宥めるように、そろりと胸をなでた。それからお
もむろに口を開く。
「佑月」
「うん?」
「…いや、やっぱりなんでも…ない」
「…?嫌な夢でも見たの?」
佑月が聞いた。ほとんど不意打ちだった。
「え?」
「うなされてたよ」
「…ああ、うん。ちょっとね」
「どんな夢?」
ひょい、と身体を倒すようにして下から覗き込まれた。嫌な夢、という単語にさっきまでの夢であって夢
でない、変と言えば変な邂逅を思い出す。
「…まぁ、痛み分けってとこだったかな」
「え?」
「あ、ごめん。なんでもないなんでもない。心配しないで」
ちらりと時計を確認した。不覚にも大寝坊をしてしまったようだ。
立ち上がる。どこ行くの、と佑月の声が追う。
「夜食でも食べたいなと思って。佑月も食べる?」
「うん、食べる」
祐月は元気だなぁと言うと、さらに元気な返事が返ってきた。いつも通りの日常。そう言う感じ。不思議
と嫌味でない笑いがこみあげる。
僕はそれじゃあちょっと待っててね、と言って佑月の部屋を出た。出て、けれどすぐに台所には向かわ
ない。一度だけ振り返って胸に手を当てると、彼女の幻影をを振り払うかのように首を振る。佑月の部
屋を出てすぐの場所の大きな窓から外へ出た。急なつくりの屋根に苦もなく立つ。あたりは闇一色。と
もすれば囚われそうな夜だ。それがかえって肌に馴染む。深く息を吸って、顎を上げた。
…燃え盛る炎よりもなお虚無的で、血の赤よりも鮮やかな。
月が、消えてく。
「月食、か」
月の魔力が消えてく。呼応するように自分の中で騒ぐ何かを感じる。
「納得したよ。今日だったんだね、君が食われる日」
喰われ、また新しいモノとして生まれ変わる。魔力を全て失い、また与えられて、終わること無き螺旋を
描きつづけていく。
――お互い、因果な命運を背負わされたもんだね。君は永遠の螺旋を。僕は永久の墓守を。
語りかけても聞くものは何もない。そんなことははじめかわらかりきったことだったので、別段悲しいとも
思わなかった。ただ、不意に思い出す。彼女の最後の言葉。
“そうね。私にもわかる。あなたもいつか、恋しく思う誰かに食われて死ぬ。ならその前にその人を殺し
なさい。殺されるくらいなら殺した方がいい。私と同じように”
見上げる月は、ただ紅い。無自覚に声が震えた。
「最後の最後にあんなカウンターを喰らうとは思わなかったよ。…痛い事言うね、君も」
笑いは、もう浮かべることすらできなかった。
独裁者は叫ぶ。首を斬れ。希望などない。それを語るお前達の声が不愉快だ。だから、首を斬れ。
「それでも、」
伏せた瞼の裏で月が嘲笑っていた。喘ぐ。
「僕には彼女を殺せない。…殺せないんだ。だからきっと、君よりも無様に死んでいくんだろう」
わかってるよ。
逃げられやしないのさ。闇の同朋。
君がいた物語は、今、ここで終わる。二度と巡る事はない。だから。
…月はもう、嘆きの歌すら風に乗せることはないのだろう。そう、思った。