眠れない夜にはどうか思い出して
君のためだけの、僕がいること
インソムニア
「あ」
彼が発したのはそれだけだった。
いつも通りの、にっこり笑顔。そのまま彼は、ひらり、と手を振った。
「いー兄、こんばんは。いい夜ですね」
「…こんな真夜中にこんな場所で、何やってんの、萌太くん」
にっこり笑顔には微塵も揺らぐところはなかった。萌太くんは小さく笑って、「眠れなかったので」とだけ言う。
「いー兄はこんな場所まで、どうして?」
「ぼくは…まあ、単に萌太くんが歩いて行くのが見えたから、何となく、ついていかなくちゃいけない気がして」
つい追いかけたのだ。
いくらなんでもこの時間、しかも15歳。誰かに見つかったら補導されかねない。
「それは、どうも」
萌太くんは、まるでこうなることを予測していたとでも言いたげな顔で、頷いた。それから、笑う。
「心配をかけたようで申し訳ありません、いー兄」
「いや、それは構わないんだけど。用がないならさっさとアパートに戻った方がいいと思うよ」
「いえ、それは…でも、家の中じゃ煙草、吸えないじゃないですか」
「いや、15歳は吸っちゃ駄目だろ。外でも」
「今さらですよ、いー兄」
にこり。
微笑みながら、萌太くんはポケットからごそごそと四角の箱を取り出した。暗くて見えないが、煙草の箱だろう。萌太くんは暗い中でもまるで見えているかのような動きで、全然問題なくその中から一本だけ煙草を取り出し、こっちが口を挟む暇も与えないほど自然な仕草で火をつけた。口に据える。
萌太くんがぼくの前で煙草を吸うのは珍しい。
なんとなく、違和感があるな…。
「……萌太くん」
「はい?」
「何?ストレスでも溜まっているの?」
「あ、いえ。ストレスとかそういうんじゃないですよ。…ん、と、…そうですね、妙な夢を見まして」
夢、と反復するように言うと、萌太くんは、夢です、と、丁寧にも繰り返した。
萌太くんの肌は白いので、月の光を反して嫌に浮き上がって見えた。す、と、自分の指を見ながら、萌太くんは言う。
「僕がいない夢を見たんですよね」
「へ?」
「だから、夢、ですよ。僕がいない、夢を見たんです」
「………ふうん」
「夢の中で、崩子は…あの子は、まだあの家にいて。僕はその場にいなくて、…というかあの子に“兄”なんて存在はいなくて、で、あの子はずっと家業に縛られて生きていて、苦しんでいました」
「へえ」
「僕はそれを見ているのに手を出せなかった」
萌太くんはそこで、物凄く嫌そうに目をしかめた。
意味もなく煙草を振る。ぽろり、と、先っぽから灰が零れた。
「悔しかったです」
「………」
「超悔しかったです」
「………二回も繰り返さなくても聞こえるよ……」
“超”なんて萌太くんに似合わない形容詞を使用してでも、悔しさを強調したかったらしい。
どうやらとてももどかしい思いをしたようだ。…夢の話、だけど。
「そりゃ、災難だったね」
ぼくは何と言っていいものかと惑いつつも、それだけ言った。が、萌太くんはやんわりとそれを遮る。
「それだけじゃないんですよ」
そして、ちろりと横目でぼくを見た。
「そうやってさんざん悔しい思いをさせられた後で、場面が変わりまして」
「うん?」
夢って時々場面が飛んだりするじゃないですか、と、継ぎ足してから、萌太くんは続けた。
「今度は、骨董アパートのみんながいる夢でした。みんなで鍋をかこっているシーンとか、みんなで誰かの誕生日を祝っているシーンとか、…つぎはぎになった映像を見せられてるみたいな感覚の夢なんですけど…崩子はその中にいて、幸せそうでした」
「そう。よかったじゃないか」
「よくないです。だって僕がいない」
「………ああ、」
そうか。
なるほど。
「悪夢だね」
「それはそれでとても微妙な情景ですよ。誰も僕の事に気付かなくて、僕はいつまでもただ、見てるだけなんですから」
「そう」
「…崩子は幸せそうだったから、まあ、よかったかなぁとは思うのですが」
「寂しいよね」
「寂しい。…ん、ですかね」
そこで。
ふと、萌太くんは首を傾けた。寂しい、という言葉を、何度か口の中で転がす。
何となく納得がいかないような感じで、目を細めた。
「ん。…その形容詞には酷く馴染みがないので何とも言えないですが、…そうですね。寂しかった、のかも、しれないです、……」
えらく歯切れが悪い。
「萌太くん?」
「いー兄は、どうですか」
「へ?」
「いー兄だったら、そんな夢を見たらどう思います?」
「さあ、よくわからないけど。とりあえず、実際にそうだったら、“だから何?”って思うかな」
「ええと…それはつまり、どういう意味で?」
「つまり、そんなもしもの世界はどうでもいいってことさ」
「……。そうですか?」
「だってそこにぼくが存在していないなら、ぼくにとってもみんなが存在していないも同じだろ」
「ん…なるほど。その理屈はわからなくもないですが…いー兄は相変わらず、戯言しか言いませんね」
くすくす笑いが耳を打ったかと思ったら、萌太くんが笑っているのだった。普段の彼の笑い方とは少しだけ違う、まるで子供のような笑い方だったので、一瞬誰の笑い声かと本気で疑ってしまった。
萌太くんは煙草の煙をぱたぱたと払いながら、ちらりと視線を逸らして、また戻した。
「でも、僕はそれ、間違いだと思いますよ」
「ん。…なんで?」
「いー兄はきっと、ほんとうにそうなったら、寂しいと思うと思います。とてもとても寂しいから、…そうやって言い訳して、自分を誤魔化しているんじゃないですか?」
「……なんだい、それ」
「いー兄はなんだかんだ言ってもへたれですからね。寂しがり屋ではないですが、自分の存在意義を自分ではなく他人の中に作っているタイプでしょう?だから、その基盤がなくなると…寂しいと思うと同時に混乱するんじゃないかと、僕は想像しますよ」
「………」
なんだ、へたれって。
…何だか知らないがとても失礼なことを言われた気がするぞ。
「萌太くん、ぼくの戯言を取らないでくれないかな」
「おや。怒らないで下さいよ、怖いなあ」
「……。そもそも、いつまでここにいるつもりなんだ?」
萌太くんは、ふむ、と、首を傾けた。
「そうですね。いー兄に話して少しはすっきりしたところで、…そろそろ帰りますか」
くるり、と、背中を向ける。とん、と、足を一歩踏み出した。細い背中が影からするりと抜け出て、月明かりにさらされる。ああ、ここは彼の領域だな、と、思った。さすがは死神、夜が似合う。
ぼくは彼にならって足を踏み出した。前を歩く背中は揺るがない。まるでぼくを導くかのように、音もなくするすると萌太くんは歩く。
「ねえいー兄」
「なんだよ」
と。
歩いていたら、いきなり萌太くんは言った。
「僕はどっちかって言うと、寂しいというよりは…悲しいと思いましたよ」
萌太くんは振り返りもしない。ただ、微かに息をつく音がした。
「どうして?」
「だって、僕がいない世界なのに、全然違和感がなくて。…まるで、」
まるで、と、萌太くんが笑う気配がした。
「まるで僕が死んでしまった後の世界みたいに思えて」
「………」
「現実感が嫌になるくらいあるんですよね。あ、もしも僕が死んだらこんな風になるんだな、って」
「………」
はあ、と、ぼくは嘆息した。
「萌太くん」
「はい?」
「それはさ、悲しいんじゃないと思う」
「…そうですか?」
「それは、やっぱり寂しいんだよ」
「…………」
「寂しいんだ」
ぼくは萌太くんが見ていないにも関わらず、首を振った。
「心配いらない。そんなものは所詮夢だから」
「………」
萌太くんは、ざり、と地面を踏みしめて、ゆっくりと振りかえった。
綺麗な黒髪がわずかに額にかかっているというのに、彼はそれを払おうともしない。
「夢、……ですか」
「そう。夢だ」
「でもいー兄」
ゆっくりと笑う。
「僕は、僕が寂しくても、あの子が幸せなのがいい」
「………」
「だから、…はい。そうですね。みんなと一緒に崩子が笑ってる、あの夢は好きです。僕はちょっと寂しいですけどね」
「……そう」
「ですよ。それに、わかっていたんです。僕は、わかっていた」
「何を?」
「いー兄。…僕は、」
彼が何を言っているのかわからなくて戸惑うぼくから、萌太くんはすぐに視線をそらした。どういうことかと問おうとする前に、声が告げる。
「わかってました。いえ、知っていた…んでしょうね。あれはきっと、夢ですら無かった」
笑みの響きをもった声はしかし不思議と泣いているかのようにも響いて。
なんとなく、こちらまで悲しい気持ちになった。
自分の死期をぼんやり悟っている萌太くん。ああ思った通りに書けないってもどかしい…!