空が割れた。
そう思って、それからすぐ、錯覚だと気付いた。
「……、ああ、」
それなのに。
錯覚だと気付いていてなお、夢まどろむことを脳が望んでいる。心地いい空気にあてられ思考の糸が絡む。居心地いい、と同時に嫌悪感。どうしてだろうな、と、思った。本当に嫌になる。この身体にすくう血が騒いで。うずいて。けれどその誘惑に負ける気はさらさらなく、だから僕はわずかに胸をくすぐるその高揚を押し殺すように笑った。
彼のそれはまさに殺人術と呼ぶにふさわしい。
見事なものだ、的確に咽喉を狙っての一閃。
すうと通った一線は自分を殺す最短距離。どんな数式よりもリアリティのある、死への距離だ。
あんまりにも綺麗に彼が腕を振るうものだから、そのナイフを避ける危機感よりも先に称賛が胸をついてしまった。本気で空も裂けるんじゃないかと、今でも思う。
それほどに鋭い。そして、綺麗だ。
空が裂ける、と、感じた。
…そうだ。
裂けてしまう、何もかも。
ああ、裂けてしまったら、もしも、この場で、
世界が。裂けてしまったら、?
可笑しい。
馬鹿馬鹿しい。
なんたる空想。
空?
そんなものはない。
自分の上に広がっているものは、空なんかじゃない。
ナイフの先に世界などない。
それはすべて、人間がつけた単なる名称。
しかし、ひゅっ、という乾いた音が届くよりも幾許か前、きらりと光ったそれは確かに日常を裂いたのだろう。
よくもまあこれだけの速さで端的に人を殺しにかかれるものだ、と、左後ろのあたりで冷静な自分が見ていた。思考よりも前に身体がその“死”を避けて。返す刀で喉元にナイフを突き付けられ。
そして現在は、その状態のまままるで静止画のように二人して留まっていた。
殺人鬼よろしくいきなり人を殺しにかかった彼。
それを当り前のように避けてしかも楽しんでいる僕。
…殺人鬼と、死神。
その巡り合わせは数奇で奇怪で絶妙に意味不明だ。けれど懐かしい感じがした。
可笑しさを前面に押し出して笑う。笑って、言った。
「こんばんは。いい夜ですね」
目の前の殺人鬼は、いくらか迷う間を置いてから、不思議な笑い方をした。
「なに。殺されかけたことはスルーすんの?変な奴」
彼の中では、“初対面の人間をいきなり殺しかける”ことは“変”のうちに入らないらしい。
かはは、とまた不思議な笑い方をして、言う。
「俺が少しでもナイフを動かしたらお前あっさり死んじゃうんだけど、そこについてのコメントは?」
「特にありません。貴方は僕を殺さないと思ってますから。…ああ、でもさっきから咽喉のすれすれにナイフの切っ先があると思うと身じろぎもできなくて困るのでできれば早くどけていただけると嬉しいです」
今、この状態でくしゃみやしゃっくりでもしたら、それだけで首から大出血だ。あまり有り難い話じゃない。
「はん。そりゃ傑作だ」
その人は、軽く笑って僕の首からあっさりナイフをどけた。未練も何もない、どっちでもいいんだけど何となく、みたいな、そんな思惑が簡単に窺い知れる。
変な人だ。
冷静になって見ても、そう思った。
外見は…僕よりもだいぶん背が低い。服装はカジュアルだが特に目立ったところはない。それよりも何よりも、白いその髪と、顔面の刺青が酷く目立っていた。男の人なのにずいぶん可愛い顔つきをしているが、年齢はたぶん僕よりもずっと上だろう。顔付きからは判断しにくいが、その雰囲気が特殊すぎて、すぐにわかった。
この人はいー兄そっくりだ。
というか、最初はいー兄だと思った。外見はいー兄とは全然違う(顔面刺青と似た外見の人が身内に一人でもいたら凄いと思う)、はっきりいって間違えようのないレベルなのだが…気配がまるっきり、いー兄だったから。
言わずもがな、死神の十八番は魂の感知で。
僕は“いー兄”の魂が近くにあることに気付き、だからこそ思わず「いー兄」と呼びかけてしまった。
で。そしたらまったく別人だった、わけだ。
いー兄だと信じきっていて呼びかけたので、別人だとわかった時は驚いた。
振り返ったその人に、いきなりナイフで殺されかけたことよりも、よっぽど驚いた。
…変な人、と形容するのは失礼かもしれないが、いー兄に似ていて“変”でないわけがないな、と、僕は真面目に思う。
刺青の殺人鬼は軽く首を傾けて聞いた。
「あのさ、さっきお前、“いー”なんとか、って俺のこと呼ばなかったか?」
「あ、はい。すいません、人違いでした」
呼んだ。
いー兄と間違えたのだ。
「人違い?」
「はい」
「“いー”なんたら、って名前の奴と?」
「はい」
「…俺がこの世で一番“似ている”と言われたくない男も、名前の最初が“い”なんだ。いや、あいつの名前なんて俺も知らないけど」
「ああ」
それはたぶんいー兄のことなんじゃないだろうか。
「もしかしてその人は戯言が口癖の人ですか?」
「ああ、やっぱりお前、あいつの知り合いか」
「はい。それは失礼なことをしました。謝罪します。ごめんなさい」
誰だっていー兄に似ているなどと言われたら酷く微妙な気持ちになるだろう。
その気持ちは素直によくわかったので、僕は素直に謝った。
「いや、」
ぱちん、と、彼はナイフをしまう。
かはは、と、快活そのもので笑った。僕が浮かべる笑顔とは違う感じの笑顔だ。
「それはもういいんだけどさ。俺は元来からの気分屋でね、理由をつけていようがなんだろうが、実際のところはなんとなく殺してやろうかと思っただけなんだ。…なのに殺す手前になって、その気が失せて俺も驚いたぜ。一応聞くけど、お前、なに?」
「僕は死神ですよ」
「死神。死神、死神…?ん。んー。ああ、そう言えばいたな、死神、とかいう…なるほどね。“人”じゃないなら殺す気が失せるのも然り、ってことか。殺“人”鬼は人を殺してこその殺人鬼、ならば“人ですらない”死神を殺す気が失せるのも道理、か?まあいい感じに戯言だけど…はん。傑作だって言った方がいいのかな」
んー。と、何か考えるような間をおいて、殺人鬼は言った。
「しかし死神ってことは、俺をあいつと間違えたのも納得ってとこか…ふうん。まあいいや。それはそうと、なあ、美少年」
「はい。なんでしょう?」
「俺、迷子なんだ。助けて」
「………」
これは難しい注文だ。
殺人鬼の迷子なんて聞いたこと無い。
…死神が道案内をする話はよく聞くけど。
「ええと…目的地を聞いてもいいですか」
「戯言遣いの家。わかる?」
「ああ、それならもちろんわかりますよ。イコール、僕の家です。同じアパートなんで」
「…そうなの?」
「そうなんです」
「それはよかった好都合。じゃあそこに連れてってくれ」
「……」
そこでようやっと、僕の頭の中の、危機感のスイッチが入った。
「その前に、一つ、いいですか」
「何?」
「貴方は安全ですか?」
「………」
「いー兄の家は僕の家ですから。貴方が殺人鬼ならば、…僕の家族を脅かす存在に成り得るってことですよね?あなたがいー兄の友人であることについては僕は全く危機感を抱いてないし、それについてはなにも言いませんが…いー兄はああ見えて自分の身は自分で守れますけど、僕の他の家族はああまで強くはないんですよ。できるだけあの家から悪意を遠ざけたいんで、答えようによっては貴方のお願いは聞いてあげられません」
「…へえ、」
こたえるかのように、彼もすうと目を細める。
「さっき殺されかけた時は全然歯牙にもかけなかったくせに、やたらと露骨な殺気ぶつけてくるじゃん。殺し合いでもする気か?」
「いえ?殺し合いはしませんよ。僕は逃げますから」
「……。逃げんの?」
「逃げます完膚なきまでに逃げますまず戦いません」
少し拍子抜けしたような声に、僕は迷いなく応えた。
それについては保証できる。
早くも逃げる思考を働かせつつ、彼の様子をうかがうことにした。彼は不思議そうに笑いながら、ナイフを片手で弄んでいる。
「ちなみに殺し合いを避けたい理由は?」
僕は返答を迷わなかった。
「貴方がいー兄と…いえ、僕の家族と似ているからですよ」
「………」
「家族に手を出すことを、本能が拒絶しちゃうんで。理性では別人とわかっているんですが」
「………」
「まあ、もともと主義じゃないんで人殺しは勘弁なんですが。いー兄のそっくりさん相手じゃ戦いにくいことこの上ないので、できれば見逃して欲しいところです」
「………」
甘いだろうな、と思いつつ僕はそう言った。
一笑されて終わりだろうなというつもりでいたのだが、意外なことに僕の発言は何がしかの効果をこの人にもたらしたらしい。殺人鬼はわずかに顔をしかめた。
むすっとしている。
何か、非常に気に入らないことがあったのだろう。ぱしっ、と、ナイフを手にとって、びっ、と乱暴な動作で僕に突き付ける。
「美少年、お前、兄貴と同じようなこと言うなよ。家族だのなんだの、思い出しちゃったじゃねーか」
妙な事を怒られた。
…そうなんですか、と、適当に頷く。何となく申し訳なくなったけれど意味がわからなかったので謝らなかった。殺人鬼はぽりぽりと頭をかく。
「ちょっと嫌な気分になった。…あー、兄貴、どうしてんのかな、今。めちゃくちゃ探されてそうで嫌だ…」
「…はあ」
よくわからない。
「ん。ん。んー。まあ、いいんだけどさ…とりあえず、そういうことにしておこうか。とにかく美少年。手だししないって誓うから、連れてってくんない?」
「………」
「大人しくしてるって。こう見えて俺は優しい殺人鬼なんだ」
「そうですか?」
「うん。だから連れてってくれ。お腹減ったし」
「………」
ちょっと考えてから、僕は承諾した。
いー兄に似てる上、お腹を減らしているように見えるから余計にタチが悪かった。甘いな、と、自分で思ったが…たぶん大丈夫だろう。崩子はどう思うのかな、と頭の片隅で疑問に思う。嫌うか嫌わないかは微妙なラインだが、いー兄に似ていると気付けばたぶんあの子もこの人のことを嫌えないだろうという予感はしていた。
いー兄を反転させて、そのまま左右逆で鏡にうつしたような。変な人だ。
わかりました、と言えば、助かる、と一言だけ。
「俺は零崎人識、っつーんだ。お前は?美少年」
「僕は石凪萌太ですよ」
「変な名前だな」
「ん…そうですね。貴方の顔面刺青くらいは、変ってことになるのかな」
人を識る、と書く名の零崎は、「かもな」と言って笑った。いー兄は笑わないのにこの人はよく笑うなあ、と、ぼんやり思う。お腹が減ってそうだったのでバイト帰りに女の人から貰ったお菓子をあげるとめちゃくちゃ喜ばれた。
面白い人だ。
それが僕と殺人鬼のファーストコンタクトだった。