気詰まりな授業が終了すると共に僕は逃げるともつかぬていでそこを抜けだした。

靡く黒髪を探して川べりを歩く。目的の黒は直に見つけた。

「やあ」

「ああ」

僕らは何時ものようにそんな挨拶を交わした。

川べりがふわふわと浮いて見えるのは、一面に敷き詰められた白詰草の背丈を地面と勘違いするから。自分に言い聞かせ、いつものように暇そうにしている少女の傍にしゃがんだ。

「何やってるの。草をぶちぶち抜いて」

目前の少女は瞳を見開くように僕を視界に入れた。目を眇めて笑う。

「別に意味なんかない。暇潰しだ。…貴様こそなんなんだ?さっきチャイムが聞こえたと思ったら急に現れた」

僕の好きなその表情を浮かべながら嘯いた。

…彼女は何故だか自分を「貴様」と呼んだ。喧嘩を売っているわけではなく、むしろ好意的な表現として。

“貴様”は敬語だというのが一応彼女の言い分ではあったが、僕の方に彼女に敬われた記憶などどれだけ遡って考えても一度とて無い。

変人なのだ。同類とは呼べないけれど。

とにかくやたら男らしい口調で少女は喋った。

「早すぎだろう。確か高等学校にはHRという存在があるんじゃなかったか」

「フケた」

「…老けた?」

「さぼった」

ああそう、と、気の無い返答。まるっきり興味を失ったらしい少女はまたぶちぶちと雑草を引きちぎり、気の無い動作で指をまわし、ぱらぱらと落とした。

音も無いとはこのことだ。軽すぎるというのも不幸だな、と、目を細める。割りにみずみずしい緑は人知れずこうして人の手にかかり、じき無残な姿を晒すだろう。

「クローバー、ちぎっちゃ駄目だよ。可哀想だ」

その憐れに思わず僕は言った。

「は。これじゃ男と女が逆転しているみたいだな。なんだ貴様、植物にも感情移入するタチなのか?乙女だな」

「何とでも。君相手に男を気取ろうとは思わないよ。虚しくなる」

「そうか?」

「いつもやり込められるのは僕だからね」

「は。利口だな」

にやにや笑う。本当に意地悪だと思う。…いや、意地悪、ではないかもしれないが。とにかく意地が黒いのだ。甘味を残した土の匂い、と、その手のひらの緑のそれ、を、ぱらぱらと祝福のように空に泳がす。

僕はややムキになり、何とか彼女に草をむしらせる行動を止めさせようと、言った。

「知ってる?それ…白詰草。別名クローバーだけど、葉、三つだろ?」

「そうだが。それがどうした」

「普通は三つ葉なんだけど…稀に四葉があるんだ。それを見つけて大事に持ってると、幸せになれるらしいよ」

「……は?」

だから。勿体ないでしょう、と、言う。

彼女はきょとんと、らしくもなくまん丸に目を見開いた。月みたいに丸い瞳が、一泊の間をおいて、そっぽを向いた。

肩が震えている。

…笑っているのだ。

「そうか、幸せか。それはいいな…ふふ」

「…笑わないで欲しいな。結構真面目に言ってんのに」

「いや、いいよ。幸せ、ね。…そうまで言われては仕方ないな、貴様に免じて止めてやるよ。白詰草虐殺は」

「…虐殺するつもりでやってたの」

「ふふ」

くすくす、笑う。肩まで震わせている。珍しい。

彼女は、はあ、と、気を取り直すように息をついた。先ほどからちぎっては捨てていた、その白詰草の残骸を手にする。

「しかし、幸せ、か。…こんなちっぽけな葉ひとつで幸せになれるわけないだろうに。幸せとはいつの時代でも安いものだな」

「夢の無いこと言うね」

「大人が見せる夢想如きじゃ、くだらな過ぎて酔いもまわらない」

割に小さいその手のひら、それにのせられた緑をじいと見て、その中に四葉が無いと知ったのだろう、ぽい、と、もう一度放った。ぐりぐりと弄ぶようにする。葉だけを器用に取り出そうとしているらしいが、まるで子供がする動作だ。言ってることとやってる事のギャップが激しい。

「…でも、クローバーが幸せの象徴なのには理由があるんだよ」

「ふうん?」

僕は重ねて言う。

彼女の暇潰しは草むしりから四葉探しに変更したらしい。声音がうわの空だった。

「四葉は十字架に見立てられるだろ。だから幸せの象徴なんだって」

「十字架?」

「だからほら、キリスト様の、」

「ああ。貴様が言っているのはあのマゾ促進をうたった宗教のことか?」

「………。なに。マゾって」

「“右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ”ってあれだ。被虐趣味も行き過ぎて笑えるな。サディストには慣れない宗教だ」

「そう?僕はなかなか見上げた考え方だと思うんだけど。まあ、別にいいけどさ」

緑と白の混在されたそれを、小さく手のひらの上で分ける少女の手に見入る。彼女は真剣な顔で手元の緑を見ている。クローバーを見つめる少女。と、それを見ている僕。…を、見ているクローバー、だったら面白いのに。そんなくだらない事を考えながら、飽きずに眺めた。

「………あ」

と。

そこで、僕は気付いた。

「あ、ちょっとまって。止まって」

「なんだ?」

意識より先に指が伸びていた。少女の髪から、そっと、触れるか触れないかの距離で指を翻し、それを取る。

「四葉だ」

掌に緑のそれ。

これと言うほど神々しくはない、素朴な姿。けれどその緑は肌に映えて爛々と見えた。

「何」

「ほら、髪についてた。君の髪に」

「ああ。…そう言えば先ほどあまりに眠かったから…、その時についたのか」

じいと見つめてくる彼女にもそれをさらした。ああ、と、細く息をついてそれに見入る。

「特に神々しいわけでもないな。ただ葉が四つあるだけだ」

これが幸せをねえ、と、彼女は呟く。

特に何の感慨もなさそうにそれを見ている彼女が面白くて、僕はそれを差し出した。

「ん」

「何だ」

「これ、あげるけど」

彼女は一瞥すら無く嘲笑した。

「興味無いな。葉一つなど受け取るに値しない」

「………。言うこといちいち男前だよね、君」

本当に、立つ瀬がない感じだ。

「貴様はやることがいちいちナヨっちいがな」

彼女はぼそりと、つまらないな、と、言った。暇潰しがまた一つ潰れた、と、意味のわからないことを言う。

ぱ、と、完全に興味の失せた様子でクローバーの…それも今から滅びるしかないその緑を、放った。

「もういい。興味が失せた」

「気まぐれだね」

「当たり前だ。ただの暇潰しだからな」

特に興味もなく、適当な相槌と共に僕は手元の幸せをいじる。

春なのだ。草の匂いがする。夏は、まだまだ先だろうか。

「暇潰し、…ね」

そう、暇潰し。

めぐる世界に彼女は頓着などしない。

彼女はきっとこれからも無為に無意味に何かを潰して生きていくのだろう。そんな予感ともつかない妙な感覚がする。そうして彼女が潰した何がしかの一つが「幸せ」と呼べるモノだったのだとしても、

「(彼女は後悔などしない)」

しないのではなく、出来ないのかもしれないが。

「………」

うん。

それはそれで楽しいかもしれないな。

幸せなどと簡単な言葉でくくられるよりは、枠をぶっ壊して見るのもいい。たとえばその枠が渚のようなものだったとしても、彼女の意志はそれだけでこんなにも美しいのだから。

「まあ、いいんじゃないかな。こんなもの、無くても」

猫のように気まぐれに、彼女に見捨てられた幸せのクローバーから視線を逸らす。少なくとも今は、この少女の隣にいるのは僕なのだ。間違えてはならない。欲しいのは神すら殺すほどの気概。無邪気な少女の白詰草虐殺どころでは無い。

地球すら虐殺してみせよう。

「(…地球虐殺、ね)」

そのあまりに陳腐な響きを嘲笑う。

それでもきっと、覚悟の無い者に世界は色を変えはしないから。

「さよならだ」

僕は砂塵ほどの躊躇いすら無く四葉のそれを指ではじいた。その他全ての残骸と一緒に、それもやがて枯れていくだろう。

「なんだ。いいのか?」

彼女はにやにや笑いながら言う。

「うん。まあね。君がいるしね」

僕も笑った。

「君の効力はきっと四葉よりも上だろ?」

彼女は、誰にモノを言っている、と、笑い飛ばした。




在る 一種の 幸福 の話