ただ一つの恋に僕の心はずっと殺され続けてきた。
物心ついた時からそばにいる、僕の想い人。ずっとずっと大好きで、…一緒にいるだけで幸せで。
これがただの“好き”じゃないと気づくのはすぐだった。
勝手に鼓動が速くなって。顔を見るのすら面はゆいような、僕だけを見てほしいような、 ――妙な欲求。
その名前が情欲に基づくものだと知ったのは、数年前のことだ。
愕然とした。
僕は男だ。彼も男だ。
同性からこんな風に思われるなどと、彼にとっては気持ち悪いだけだろう。僕だってそう思う。それなのに僕は、確かなものとしてその欲求を見つめることができた。…できて、しまった。
彼に抱かれたい。
その腕の中で呼吸をしたい。
もっと端的に言えば、僕は彼に、まるで女のように犯されたいと――思っているんだと。
それなのに世間一般では、僕と彼は“幼馴染”のくくりに入るそうだ。笑ってしまう。
指先が触れただけで勝手に鼓動が早くなって、夜になると彼の細長い指を思って自分を慰めた。声を聞くだけで切なくて、少し触れるだけで嬉しくて。――こんなに激しいものを秘めているのに、僕は彼にとって、“友情”の延長線上にいる。これを滑稽と言わずになんと言うだろう?
潔癖な彼が、困った顔で自分に伸し掛かる場面を想像するだけで、情けなさに毎晩泣きたい気持ちだった。それくらい僕は、彼のことがたまらなく好きだったのだ。
「(はじめくん、好き。はじめくん、はじめくんはじめくんはじめく、…はじめく、ん。ごめんなさい、大好き)」
男なのに。いけないことなのに。
これは、この感情は、彼に嫌悪感を抱かせるに足るものだ。彼は優しいから、僕を嫌いにはならないかもしれないけれど、きっとこの気持ちには応えてくれない。
そして彼は、その優しさゆえに――そっと、ゆるく、僕を遠ざけるだろう。僕にはそれが耐えられそうになかった。
この思いは簡単に諦めがつくような、そういった種類のものじゃない。
…だってもう、物心ついた時からそうなんだ。
今更この感情を奪われたら、もうどうやったって生きてなんていけない。
だから僕のこの半生は、盛大な逃走劇そのものだった。
我慢できる最低限の頻度で彼に会い、それ以外では徹底的に避け続けた。学校だってわざわざ遠くに通った。僕が彼の心を占めていい範囲は、“親同士の付き合い”で許されるものだけ。
でないとこの感情を、悟られてしまう。それは何よりも恐れなくてはならないことだ。
会いたくて仕方ないのに、会うのがなんだか怖い。ずっとそんな状態を繰り返して。
僕は僕の心を殺した。一生懸命に、殺してきた。ずっと――ずっと、だ。
殺しきれなくなったのはつい最近。
部活の関係で、彼の学校へ行ってからだ。
距離を開けたくてわざわざ別の学校に進学したのに、剣道部の練習試合だとかで結局、僕は、学校で彼と出会ってしまった。女の子に囲まれて、笑う彼を、知ってしまった。
嫉妬、という言葉すら生ぬるい。突き詰めた羨望は、僕にとって、毒だ。
女の子が羨ましい。
僕は男だから彼に好きだとも言えなくて――悟られてもいけなくて。
こんなに苦しくて、こんなに悲しくて。それでも彼のそばにいるだけでいいなんて、僕はもう思えなかった。
「(もしも、僕が女の子だった、ら)」
彼と恋仲になれたかな。
…ああでも、彼はもっと清純そうな、おしとやかでかわいらしい、小さな女の子が好きなんだろうな。
僕はきっとそんな風にはなれなかっただろう。
でも。
一生懸命にねだったら、彼は優しいから、抱いてくれたかもしれない。
もしも、僕が女の子だったら、きっと。
いいな。
…いい、なあ。
「(ごめん、ごめんね。僕は、…君の親友なのに)」
彼の甘く囁く声と、熱い腕と。そんなものを想像しては、幾度自分を慰めただろう。
いい加減に罪悪感を覚え始めた僕は、最後の手段に出た。
別に言い訳にするつもりなんてない。
ただ、――それは、そうやって思いつめていた時期だったのだ。
「女になれる薬」だなんて胡散臭いものを、山南さんに勧められたのは。
それが僕の最後の手段。
たとえ何を失っても、ただ一度でいい、彼に抱いてもらえたら。その記憶だけで僕は、生きていける気がしていたんだ。
どうしようもないくらい彼が好きだったから。
一度でいい。それが彼にとっては、何らかの間違いでも、気の迷いだって思われても構わない。若気の至りでも何でも――どんな理由で片づけられたって、心に残らなくたって、気持ちのある行為じゃなくたって。
何でもいい。その腕に抱いてほしい。
男相手だったら勃たなくても、女相手なら好みじゃなくたって抱けるはず。
…理由があればいいんだ。
僕が、彼に抱かれなくちゃいけない理由が。
そうすることで彼が少しのやましさを帳消しにできるのならば、それで構わないじゃないか。
だから僕は適当に理由を作った。“セックスすればもとの体に戻れる”。そうやって嘘をつけば――致し方なく彼も、抱いてくれるかもしれない。
そこまで考えて僕は、必死に彼を誘う手筈を、整えたんだ。
なのに。
「(…、あっさり振られちゃうんだもん、な)」
身体は女でも心は男だ。みっともなく泣きすがってまで、同情を惹こうとは思わない。
僕ははじめくんが大好きだ。だからそんな彼の、生真面目なところだって愛してる。
「(すきなひと、が、…いたんだ…)」
納得できた。それは抱かないはずだ。だって彼は、一番大事な人を、ほんとうに大事にできる人だから。
はじめくんは、もうとっくに、誰かのものになってたんだ。
ほんのひとかけらでも、僕に裂く部分なんて残ってはいないんだ。
彼と恋の話なんてほとんどしたことがなかったけれど(それはそうだ、だってその話題は僕にとって地雷以外の何モノでもないのだから)、彼に恋人がいる様子も特にないけれど、性格の生真面目さやたまに見せる価値観から容易に想像できた。
彼は、自分の恋愛に、とても誠実な人だろう。
「(…きみの恋は、片想いなのかな。それとも両想いなのかな)」
両想いなんだとしたら、僕に秘密で付き合ってたのかな?二人ででかけたり、抱き合ったり、口づけあったりして。相手の子はきっと、清楚でかわいい、小さな女の子なんだろう。そんなの僕には、死刑を宣告するも同じことだ。
恋人がいたってそれを報告もしてくれないような、僕は彼にとって、その程度の存在だったってことになっちゃう。
でも。
…でももしも片想いなんだとしたら?
相手は誰だろう。
ああ、でもきっと、相手だって君のことが好きになるよね。
それにたとえそれが叶わぬ片想いでも、君はきっとその想いを手放してはくれないんだろう?
わかるよ。
僕だってそうだもの。
彼以外の誰かに恋をしろと言われたって、そんなこと、――
「(――あ、もう、だめだ)」
どっちにしたって僕に救いの道なんてない。
…僕は壊れてしまったのかもしれない。
心はなんの痛みも伝えてこないのに。
思ったよりも衝撃はなかった。でも勝手に瞳からは涙がこぼれて。
何も考えたくない。
何も考えられない。
僕は。僕の心を押し隠すのにただひたすら必死だった僕は。
今はただ、ただただみじめで。
こんな身体になってまで君との一夜が欲しかったのに、それすらも、だなんて。
「(僕からはじめくんを取らないで。お願い、僕には彼しかいないんだよ、)」
「(なんて、みじめな――これが、こんなものが、僕のすべてだったなんて)」
ああ、もう。
こんなに涙も出ているのに、みじめで仕方ないのに。
それでも一欠片の矜持が、僕をつき動かすんだ。
「馬鹿!そんな格好で外へ行く気か!」
「……、……」
部屋を出て行こうとしたのを、無理に止められた。男と女ってすごい。全然振りほどけなくて、僕は力ない人形のように、ふらふらともとのベットの上に座らされた。
「自分の格好を見ろ。女の身体でこんな夜中に、」
「はなして、」
「……断る」
威嚇するみたいな低い声に、肩が震える。
「は、はなして。これ以上僕をみじめにさせないで」
「…何を言っている総司。俺は、」
「親友なんていらないんだ」
君なんていらない。
口からあっさりと飛び出たその言葉は、自分でも驚くほど心に響かなかった。
いらないわけない。欲しい。欲しくて仕方ない。
君が欲しい。
でも口にしたら惨めだから、僕は「いらない」と強がった。
「く、薬のことだって別に君じゃなくてもよかったんだ。誰かほかの人に抱かれてくる。ごめんね?君には迷惑なんてかけないから安心してよ。忘れて。全部忘れて。きっと明日には男に戻ってるし、…ちゃんと今までどおりになるから。君にだって、ちゃんと笑って挨拶するし、当たり障りのないことしか言わないし。君の親友もどきに戻ってあげるから。だからさ、君にとっては僕の身体のことなんてどうでもいいことかもしれないけど、」
「…総司」
「夢だって思って。ね?そのほうが楽でしょ?夢ってことにしてよ。こんなの、悪い夢なんだから。君には好きな人がいて――さすがの僕だって、彼女持ちを誘うなんて寝覚めも悪いし」
「………」
「君に好きな人がいるなんて聞いてなかったけど、僕だって自分の好きな人のことなんて君に話さなかったんだから、おあいこだったよね?変な焼きもち焼いてごめん。僕はもう、いいから、――君にとって都合がいいだけの、“僕”でいいから――だ、だから、…おねがい、だか…ら、僕、」
あ、だめだ。
また涙が出る。声が、涙に負けるんだ。止められない。のどの奥がひりひりして。
こんな情けない顔、見せちゃダメだって、思うのに。彼の前ではきれいな自分でいたいのに。
猿みたいに顔をゆがめて、顔を赤くして――みっともない顔をしてるかもしれない。そう思うと顔を伏せるしかなかった。
「…、…これ以上…惨めに、させないで。ごめん。…僕、もう君の誇れる“親友”にはなれないんだ。だって、君に好きな人がいるって聞いても、祝福する気なんて、これっぽっちも、」
「……」
「早く壊れてしまえばいいって、思っ――」
「総司。もういい」
低い声が、聞こえた
力強い何かが僕の肩をつかんで引き寄せている。僕の身体はいやにあっさりと彼になびいた。肩なんて、彼の手に丸ごとおおわれて。ああ、やっぱり男と女じゃ肩の細さも違うし手の大きさも違うんだななんて、場違いなことを思う。
彼が優しいことは知っていた。
だから僕の心を満たすのは、少しの罪悪感と、悲しみだけだ。
抱きしめてもらっただけでこんなに、呼吸が苦しくて、息が止まって。もう死にそうなくらいに震えているのに、この人は僕のものじゃないんだって思ったら。
「――は、はな、…離して、」
「断る」
「ん、…、斎藤く、……ッ、」
細長くて熱い指が、僕の鎖骨のあたりからせりあがって、うなじを撫でた。
彼の手を、やけに大きく感じる。僕だって男だったときは彼と同じくらいの大きさだったのに、女になると、もともと首が細いからか、まるで包まれるみたいに――
「ん…ッ」
はふ、と、変な吐息が零れた。僕を宥める意図にしては、やけにいやらしい、恣意的な動きに思えて、目を見開く。
「――、…な、何?」
「俺でいいのか」
「な、なに…何が、…、んっ」
「あんたの好きな人間というのは、俺ということで、いいんだな?」
「―――ちが、」
「違うのか?」
違わない、けど。でも認めたら困るのはそっちでしょう。
どうしてそんなこと、聞くの。
どうして、僕に触ってくれるの?
「…うぁっ、…、…な、なに、何するの」
「何って――知っているだろう。あんたがしたがってたことだ」
「ひゃ、ちょ、ちょっと…君、好きな人、」
「俺は」
低い声が、耳元で。嬉しいけれど混乱が勝って、僕は必死に彼を押し戻した。けれどそんな抵抗などまるで無いかのように、彼は僕の手を絡め捕る。びくびくと震える僕の手は、大きな彼の手に包まれて――まるで子供にもどったみたいだ。大きな手に宥められて、僕は肩の力を抜く。
「俺は嘘は言っていない。あんたは言ったな、自分をなぜ抱かないのか――“自分以外に好きな人間でもいるのか”と」
「、…、…ッ」
「俺は“そういう訳ではない”と答えたはずだ。なのに勝手にそれを否定して、勘違いをしたのはそっちだろう?」
「な、…でも、だってあの時君、気まずそうに眼をそらして、」
「それはそうだな。惚れた人間がいないわけではなかったから、」
「…、…、ど、いう…?」
「俺には、あんたが何を考えているのかわからなかった。昔っからだ。なつかれていると思っていたのに、学校はわざわざ俺を避けるみたいに遠くを選ぶし――家の付き合い以上のことをしてこない。触れればおびえたような顔をする。正直、」
「―――、」
「俺は、あんたに嫌われているんじゃないかと思っていた」
まさか。
まさかそんな。
「ね、ねえ」
「なんだ?」
「もう一度、同じ質問を…しても、いい?」
「ああ」
「君、僕以外に、好きな人、…いる?」
ちゅ、と、首筋に唇が落ちる。軽く触れるだけのそれは誓いの意味を持っているのではないかと勘繰ってしまうくらい、恭しかった。
不安で、顔を見たくてたまらなくて、僕はじたばたと暴れてなんとか彼から距離を取ろうとする。少し離れないと顔を見ることもできないのだ。でも僕の必死さをあざ笑うかのように、彼の声は上機嫌だった。
「…“お前以外”になら、いないな」
そんなのずるい。反則だ。
怒ってやりたいと思っているのに、不思議と先ほどよりも声が出ない。ふええ、と、もう噎せ返るほど泣きじゃくって僕は、彼の肩をぽかぽか叩いた。
涙の意味なんて、もうとっくに変わってる。だからこらえる必要なんてない。
「好き。好き、はじめくん、僕も、…僕もはじめくんが、大好き…」
言ったらぎゅっと抱きしめる力が強くなって。熱に翻弄されながら僕は、口に出したくてたまらなかった言葉を、何度も繰り返した。