夕日が綺麗な学校の屋上、というのは、みんなが憧れるシチュエーションなのだと思う。 それは、たとえば告白をしたりだとか。 たとえば、初めてキスをしたりだとか。
成程確かに日が落ちる寸前の、僅かに柔らかくなった太陽の光だとか、うすく伸びた雲の影だとかは、人の心を感傷的な何かに走らせるには十分だろう。 あいにく僕はそんなものに心動かされるほど可愛らしい性格をしていないけれど、
けれど。でも。 ――自分の恋愛なのだから、そんなに軽く見ることができるわけもない。 憧れはしない。断じてしない、…けれど。
「(でも、あんまりだと思う…後悔くらい、僕だって)」
夕日をバックに二人っきりの放課後、屋上。 たしかに好条件だけれど、それだけの理由でバージンまで奪われた僕の恋愛は、もうどこに向かっているのかすらわからないじゃないか。 告白もどきはされたけど、その後「恋人にはできない」と言われて。 でもちゃっかり身体は奪われて。
心も体も奪ってくれたなら何の問題もないのに、中途半端に残された僕の心は、そろそろ困惑を伴って周囲に八つ当たりをし始める頃合いだった。
夕暮れ、屋上、然るべき哀愁
自分でもびっくりするくらいその時の僕は荒れていた。 ささくれ立った心をどうしていいかわからなくて、――拗ねていた。 そう。悔しいことに、どう顧みても僕は“拗ねて”いた。
怒っていた、じゃなくて。
「(…僕だけ必死で、僕だけ戸惑って、馬鹿みたいだ)」
怒り。もちろんそれもある、あるけれど――斎藤くんを恨む気持ちよりも、“斎藤くんを好き”という気持ちの方が強かったから――だからこれは、この怒りは、斎藤君に向かうものよりも自分に向かうものの方が強かった。 そういう不可解な心の動きがはじきだした行動が“拗ねる”こと。
惚れた弱味と言うのは、きっとこの不可解な心の化学反応を言うのだろう。 斎藤くんが構ってくれないから、僕を恋人にしてくれないから、キスしてくれないから。 僕はどんどん自分を嫌いになって、どうしていいかわからなくて、いっそ斎藤くんを嫌いになれたらいいのにと、できもしない空想と戦って周囲に八つ当たりするしかなかった。
ほんとのことをいうと戸惑っていたのだ。誰かを恋愛的な意味で好きになったことなんてない僕は、――どうやったら斎藤くんに好きになってもらえるかという、ささやかで、けれど大事な部分から相手を理解できなかったから。
どうやったら相手に自分を好きになってもらえるか、わからない。 「付き合って」と言えば困った顔をされるから、それが見たくなくて、「好き」の言葉も言いたくなくなった。 酷い仕打ちをされたってこんなに好きなのに、その「好き」の言葉が封じられたら僕はもうどうしていいのかわからない。「好き」と言うこと、恋をぶつけることが彼には迷惑なのだとしたら、僕はどうしたらいいんだろう。 前に進めない息苦しさは、確かに僕を苛立たせた。
だから。
「…どうして僕を抱いたの」
あの日と同じ、放課後、屋上、夕焼けの中で、僕は彼にそう聞くことにしたのだ。 何よりも彼に嫌われるのが怖い、憶病な僕としては、よく頑張った方だと思う。声は少しも震えていなかったと思うけれど、そのぶん堅い口調になってしまった。 舌うちすら押し殺して、僕は彼を見る。
「………」
斎藤くんは、綺麗なその蒼の瞳の中に、僅かに夕焼けの赤を濁らせて僕を見ていた。少しの沈黙の後、どう応えたものかと迷う間を置いて、
「あんたが欲しかったからだ」
素直に告げる。 その実直さが僕にはとても羨ましくて、好ましくて、だから痛い。 彼の瞳はどこまでも嘘をつかなくて、僕は――僕はとても、悲しくなってしまった。 どうしたって、わかってしまう。
どうして僕を恋人にしてくれないの? 理由なんて簡単だった。
――彼が欲しい誰かは、僕に似ているけれど、僕ではないんだ。
彼は記憶がどうのこうの言うけれど、僕の過去は誰より僕が知っている。こんなに彼の瞳に惹かれている僕が、彼を忘れるなんて――あり得ない。だとしたら、人を間違えたとしか。もちろん、どういう風に運命が絡まったのか、わからないけれど――
どうあがいたって、僕には、彼に置いていかれる未来しか見えなかった。
「……、君って、酷い人だよね」
やっとのことでそう口にした僕は、もう泣くのを我慢している所まで来ていたけれど、意地でも涙を出すものかと、唇を噛みしめていた。 涙なんて、自分を憐れむことができる幸せな人種が生み出すものだ。だから泣かない。それくらいだったら、虚勢でも何でも、彼を睨みつける方がよっぽどいい。
「恋人にする気はないくせに、そういうことだけは言っちゃえるんだ?」 「あんたの記憶が戻るのを待っているだけだ」
待っても無駄だよ、とは言わない。咽喉が凍りついたみたいに動かない。 だって“それは僕じゃない”。 それを言ったら、彼が離れて行ってしまうかもしれない。 どこの誰だか知らない彼の想い人に、彼をとられてしまうのが怖かった。
「………っ」
言いたいことが言えなくて、僕はまた、唇を噛みしめる。 聞きたいことはたくさんあるはずなのに。
「(どうしたら恋人にしてくれるの、どうしたら君は、君のその好きな人を諦めてくれるの、どうしたら、…どうして、…どうして僕じゃ駄目なの。僕は、君じゃなきゃ駄目なのに)」
「――沖田、唇をかむな。切れて血が出ている」 「ッ、」
彼の細い指が唇に触れる感触がして、僕は思わず身体をのけぞらせて、フェンスに背中をぶつけた。固い感触と共にわずかに体重が跳ね返されて、背骨のあたりが痛い。
「……ッ、なに…!」 「噛むな。血が、」
ついと唇に指を触れさせて、斎藤くんが顔を近づける。
――この野郎、キスしてやろうか。
と、思っても僕は怖くてそれができない。キスはしないと言ったのは、彼だからだ。それを破ってしまっては、嫌われてしまうかもしれない。 でも、…でも!
「…ん…ッ」
されっぱなしで翻弄されるのは嫌いだ。 僕は彼を睨みつけ、唇の表面をなぞる彼の指に、軽く歯を立てた。
「………」
斎藤くんは面白そうに目を細める。 その余裕の表情が憎らしかった。
「ん…ん、…ッ、」
食いちぎってやればよかった。そう思っても、今の僕の精一杯は“ちょっぴり噛むだけ”なのだ。噛みきれるものならと笑う彼の余裕が腹立たしかった。
「沖田」 「…ん…ッ」
でも、それでも強く噛むなんてできない。ぐいと顔を近づけてくる斎藤くんの、その近さにくらくらした。どうせキスなんてしてくれないのに、どうしようもなく期待して。
せっかくの虚勢を、ほどいてしまう。 無防備な心を無防備なまま晒すだなんて、
「(…ばかみたいだって、思うのに)」
甘えるように名を呼んで、恥ずかしさに目を閉じて。 それからそっと差し出した舌で彼の指を舐めた。 “キスして”の言葉は音にならないけれど、彼なら伝わるんじゃないかと、思った。
勝手もよくわからないけど、舌は官能を呼び覚ます部位だって、どこかの本で読んだことがある。こうすることで少しでも彼の欲を煽れるならそれでよかった、――もしくはキスはできないと言う彼の、その罪悪感を煽ってやれれば。
「ん…」
おそるおそる目をあけて、彼の顔を見つめようとしたけれど、その前に彼の気配が動いた。 彼の指先が唇から離れて、するすると顎から下、首元を撫でられる。
「…んんッ?!」
そのまま力強く肩を掴まれる。 まさかと言う思いと混乱が僕の心臓に揺さぶりをかけてくる。抗うすべなく僕は一瞬でパニックになって、唇に触れるかもしれない、彼の唇を待った。
が。
「ぴ」と「や」と「あ」が入り混じったような意味不明な悲鳴を僕の口からひねり出したのは、唇の刺激ではなく、――いきなりの耳への刺激だった。 あまりの驚きと衝撃に彼と反対方向、つまりフェンスの方に思いっきりタックルをした結果、痛みによろめく肩を斎藤くんの腕ががっしり掴む。
「沖田…」 「…っう、え、…」
み、耳元で囁かれている。 ぞくぞくするような低音と吐息が直に耳たぶに当たって、
「…っや…!」
ぞわぞわするとかいう問題じゃない、下半身に直接クるようないやらしい動きで耳を舐められて、僕はあっさりと生理的な涙をあふれさせた。 背中に当たるフェンスが邪魔だ。このまま消えてなくなって、僕をこの屋上から突き落としてくれればいいのに。
「…っぁ、やだ…ッ!」
唇にキスしてほしいだけなのにこんな方法で煙にまかれるなんて冗談じゃない。 僕は必死に彼の肩を押し返した、――つもりだ。なのに自分でも驚くほど腕に力が入らない。 耳に舌を差し入れられて、ゆるく耳たぶを噛まれて。
「ちが、う…はじめくんの、馬鹿…!」
僕はキスしてほしかったのに、こんな風に誤魔化すなんて最低だ。 悔しくて涙が出そうだけれどそれは死ぬ気で耐える。 …生理的な涙だけは、意志の力ではどうしようもないけれど。
「………っ、いや…だ、って…!」 「あんたは、相変わらず耳が弱いな」 「だから、耳元はやだ…っ」
誤魔化さないで、の言葉をさえぎるように、斎藤くんは身体を離した。 どうということも無いいつもの冷静な顔で、一生懸命睨みつける僕を、
「悪いが、沖田。そんな顔をしても可愛いだけだ」
そんな風に笑ってくる。 むかつく。 むかつく。 …むかつく…!
僕は、その時初めて「きらい」と言う言葉を、口からひねり出した。 本心とは丸反対のはずなのに、その言葉は妙に僕の心に馴染んで。
ただ、 少しだけ目を丸くする斎藤くんに、初めて溜飲の下がる思いがした。 僕ばっかり君が好きだなんて悔しいから。
「(もう何を言われたって無視してやる)」
フンとそっぽを向いて、僕は彼から目をそらした。
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