唇がかさついて痛い。指で触れるまでもなくかさついていることがわかるそれを、僕はペットボトルに押しつけ、水を飲んだ。ほてった身体に気持ちいいかと思ったのだが、存外それは寒気を伴って背筋を通り抜けただけで、一度に多量を飲んだことを後悔する。頭が痛い。肩が重い。こうやって立っているだけでふらついて、思考がまとまらない。一人暮らしと言うのはこういう時難儀だと、そう思いながら僕は手に持った携帯を開いてメールを書く。相手は土方さんだ。「風邪ひいたので休みます 沖田」と、それだけで送信。もともと身体は丈夫な方ではない僕は、熱を持った咽喉に触れながら、ベットの上に転がる。熱のせいもあるのだろう、身体が沈み込んでしまいそうに重くて、瞼から力が抜けて行く。
「(大丈夫、これは、ただの風邪、だ)」
ヴヴ、と、すぐに軽い振動があって、笑ってしまいそうになる。初めに電話があって、メールが来て、その後また電話。過保護だなあとくすぐったい気持ちを押さえつけて僕は携帯を耳に押しあてた。
「はい」
『総司。お前、大丈夫なのか?』
「ま、わかりやすいくらいに立派な風邪ですよ。…けほっ」
『大丈夫か?!』
「…大丈夫です。寝れば治ると思いますから。ただまあ流石に学校に行って誰かにうつすのもなんですからね、今日はお休みってことにしておいてください」
『それは構わねえが、ちゃんと養生してるんだろうな。飯はあるのか』
「……カップ麺くらいなら」
『阿呆。仕方ねえからあとで見舞いに行ってやる。大人しく寝てやがれ』
「土方さんに看病されるってぞっとしないなあ。…まあ、別にいいですけど」
それよりも、と、僕は少しの焦燥を持って、携帯を握り直した。
「…土方さん」
『あ?なんだよ』
「このこと、斎藤くんには言わないでください」
『なんだと?』
「…いいから、言わないでください」
『…理由は?』
低い声で言われて、僕は渇いた咽喉を押さえつけた。
理由。…わからない。
単に弱った姿を見られたくないのかもしれないけれど、何故か。ほんとうに何故か、僕はそう思ったのだ。
一くんにはこの弱り切った姿を見せてはならないと、まるで本能がそう叫ぶかのように、当然のように。
「(…なんだろう、頭が、ぼーっとする…)」
そうして僕は自分の手が醜く震えていることに気がついた。まるで怯えるかのように、身体が何かを訴えている。どうしてこうまで強い感情を覚えたのか、自分ですらわからないまま、僕は一くんがここにやってくることを想像した。それだけでもう駄目だった。それは、何よりも恐ろしいことのようにすら、思えた。
「…っ理由なんてどうだっていいでしょう。見られたくないんですよ、今、みっともない格好してますし」
『なんだよ、変な奴だな。…まあ、俺が黙っている分には、構わねえが…』
「それでいいですよ。それじゃあ僕は寝ますから」
『ああ、いや、総司』
「なんですか?」
『斎藤のことだが』
電話の奥の土方さんは、訝るような声のあと、こう行った。
『朝、お前の姿が見当たらないとわかると、俺のところに来てな。俺は知らないと答えたんだが――体調不良うんぬんの理由をつけて学校を出たから、もしかしたらもうお前の家に行っているのかもしれない』
――逃げろ、と。
誰かに囁かれた気がして、僕はその部屋を飛び出していた。
† † † † †
総司は遅刻することはいつものことだが、一時限目を超えてもまだ姿を見せないとなると珍しい。どうにも気になって仕様がなく、俺は授業が終わるなり土方さんを訪れ、総司から連絡が来ていないかと尋ねた。何もないと言いながら土方さんも気にした様子だ。
「(風邪でもひいたか、)」
俺はそう思った。そうとなれば決断は早い。
サボろう、と、その足で担任のもとへ向かい早退する旨を伝えた。鞄を取り、学校を出る。総司の家は知っていた。実質一人暮らしに近い総司の部屋は、学校からそれなりに歩いた位置にある。
だが。
まず、鍵がかかっていないことに嫌な予感がしたのだ――迷わず踏み込んだ俺の目に飛び込んだのは、主を失ったベットと、放り投げられた携帯だった。
「……総司?」
ベットに触れるとまだわずかに熱がある。ついさっきここを出たばかりなのだ。携帯には土方先生への着信歴が表示されていた。
嫌な予感がする。
「(逃げたのか)」
断定はできない。体調が悪いのに無理をするなと、何度口にしてもあいつは聞きいれたことがないのだ。幕末の頃、俺が心配するたびにあいつは笑って、笑うことで本心を誤魔化そうとしていた。看病を申し出ても、頑なに固辞して俺を近づけなかった。
――うつるから、と。
覚えているのはもぬけの部屋か、もしくは「入って来なくていいよ」と明るい声を出す、襖越しの総司の声だ。あいつは起き上がることすらできない状況に陥ってなお、自分一人でできるからと無茶なことばかり口にする男だった。こんなものはすぐに治ると大言壮語を吐くこともあった。発作が起きた時ですら、なんとか咳をとどめようと、見るに堪えない努力を続けたりもした。
傍にいてほしかったくせに拒絶せねばならない辛さを、けれど決して俺に譲ろうとはしない。あいつはそういう男だ。
けれどまさか今になってさえ、この平和そのものの世になってすら同じ行動を取るのだとしたら、呆れたものだと言う他ない。
「(――どこへ)」
弱った時の総司は一人になりたがる。どこへ行ったのかという憶測を立てることは難しい、が、もしも俺を避けたのだとしたら、学校とは反対方向へ向かっている公算が大きい。俺はすぐさまそこを飛び出して道路に出、あたりを見回した。熱があるのだ、そう遠くへは行っていないはず――
出会ったら叱ってやる。
そう思いながら、俺は焦燥だけを手にして駆けだした。
† † † † †
総司は、そこから少し走った先、路地から少し出て河原へ入ろうというあたりで小さくなっていたのを見つけた。見つけた瞬間思わず呼びかけると、びくりと震えた肩から、振り返りもせずに逃げ出す。
「沖田!!」
もう一度呼び、逃げる総司の腕を取り押さえた。流石に弱っているだけあって、少し腕を引っ張るだけでふらりと揺れた総司は、それでも頑なに俺を見ようとはしない。
「やっ……だ、離し、」
「何を言っている」
こちらを向け、と肩を抑えようとすると、総司は俺に抗う意を示すかのように弱弱しく腕をふるう。それを無理やり押さえつけても、顔をそむけ、硬く目をつぶり、どうあっても俺を見ようとはしなかった。
「どうかしたのか」
「やだ、離して、放っておいて!」
「…総司?」
「ん、…っ、…やだって…!あ――」
弱った体での精一杯なのだとわかる、思ったよりも激しい抵抗がくる。俺は総司を抱きとめようとしたが、その強い感情の前に僅かにひるんで距離を取った。
変な話だが、近づけば総司が死んでしまうような気がしたのだ。
総司が怯えている対象はどう考えても、俺だった。
けふ、と小さな音をたて、咳をして。それを噛み殺そうと躍起になって、ぎゅうと強く口をふさぎ、その場にしゃがみ込む。弱弱しいその姿は幕末の頃には見たことのないもので、それが俺の動きを凍りつかせた。
「ぅ――あ、っく――ん、こほっ、」
「総司!」
「来ないで!!」
沖田は明らかに怯えた様子で、それでも俺を見ようとしない。わけもわからず途方に暮れる俺を、けれど総司は構わない。何とか咳をとどめようと咽喉に手をやって、無理に呼吸を止めている。
「総司、息を吐け。ゆっくりでいい」
「ぁ――」
「大丈夫だ、咽喉を痛めている時に大きな声を出したから咳が出ただけだ。落ち着け、あんたのそれは、ただの風邪なのだから」
「っ、……ん……っ、」
す、と、小さく息をつく音がする。それに安堵しながら、俺は一歩、怯えないように固い声を作らないよう気をつけながら、名を呼んだ。
「総司?」
「…ぅ、あ、…近寄らないで、斎藤くん、怖い…」
「怖いって何がだ」
意味がわからない。俺はいつもの斎藤一だ。怖がられる理由がわからない。
「いいからっ、来ないで!君の顔なんて見たくない!」
総司は強く、そう叫ぶ。叫ぶものだから余計に咽喉につっかかって、激しい咳を繰り返した。それは嫌な音をたてる咳で、俺の嫌悪感を強く掻き立てる。少しでも近寄れば総司は余計に激昂するだろう。苦しむ総司に手を出すことすらできないのかと、拳を強く握る俺を、総司の方も悲しげに見る。わけがわからないと自らの理不尽を訴えるような、怯えた子どものような目だった。
激しくせき込み、涙を浮かべた瞳と、初めて目があう。息苦しさにあえぎながら、総司はひとり、その場に座り込んだ。その咽喉が血を吐きだすことはない。けれど総司は、幕末のあの頃よりも、ずっとずっと痛々しく見えた。この世のすべての苦痛を背負い込んだみたいな絶望的な顔で、ただひとこと「ごめんね」とだけ――、
声にならない声をあげて、ついにふらりと傾いた身体を、俺はためらうことなく支えた。
† † † † †
…ごめんね、はじめくん。
ほんとうは――あの時の僕は、あんな小さな約束ですら、信じることができなかったんだ。
言い訳に聞こえるかもしれないけれど、僕はあんな約束、そもそも結ぶつもりはなかったんだよ。考えたことは何度もあったけれど、絶対に口に出してはいけないと思っていた。けれど君が優しいから、本当に曇りの無い愛情を僕に向けるから――だから、甘えてしまいたくなった。僕は自分を強い人間と思っていたけれど、その考えはあっさりと覆されちゃった。ごめん。やっぱり僕は、最期まで我儘だったね。
僕の“強さ”は、彼の今後を、僕の存在が壊してしまわないようにと、彼の幸せを純粋に願うことができたこと――これが嘘偽りのない僕の本心だったと言うことだけは本当だから、それは疑ってほしくないんだけれど――僕の心は、それだけじゃなかった。そして僕の“弱さ”は、そんな綺麗事ばかりの未来ではなく、僕の存在を強く君に刻み込みたいという醜い願いを、生みだしてしまった。
僕には欲しいものができた。
君との綺麗な別れが欲しくて、それだけをずっと、考えるようになった。
“僕以外とキスはしないで。僕の病が治ったら、たくさんしようね”
僕は、とんでもない大嘘つきだ。自分が回復することなどまるで信じていないくせに、軽い約束をいくらでも口にできる。
ほんとうはね。僕は、僕と君はここで終わるのだと、それが当然だって思っていたんだよ。
だってそうでしょう?僕の病が治りようも無い所まで来ていることは、誰よりも僕が知っている。
それでも、信じてもいない安っぽい希望を口にしたのは、それが僕の醜い本音だったからだ。
僕を覚えておいてほしいという、弱くて、みじめったらしい本音。
他の人の知らない君を、僕だけが知っていたいという、子どもみたいな独占欲。
彼はそれを受け入れて、優しい言葉をかけてくれた。かなうはずがないと知りながら、僕と口付けできる日をいつまででも待つと誓ってくれた。そんな君が愛おしくて、たまらなくて、僕は思わず、自分を殺してやりたいとすら思ったよ。
口付けという形だけでも、彼の中に自分を遺すことができる。それを嬉しいと思ってしまう自分は、心から、反吐が出るくらいに醜い。
君がいてくれたから、あの時の僕はとても満たされていたのに。
――変わらない愛情を注いでくれる彼との未来にあったのは、せいぜい綺麗に別れてやろうという、僕の醜い本音が詰まった、それはそれは汚い約束だった。
† † † † †
「………、」
目を覚ますと、見知った部屋だった。
斎藤くんの部屋だ。クローゼット、机、本棚と視線を滑らせた所で、今まさに扉を開けたらしい斎藤くんの姿が目に入る。
ああ、そうか、と了解した。ここは彼の部屋だ。自分は倒れたらしい。
「……斎藤くん?」
「落ち着いたか」
斎藤くんは気遣わしげな顔と声で、一言、「近寄ってもいいだろうか」と言った。安易に近寄って先程のように錯乱されてはかなわないと思ったのだろう。僕はぼんやりと視線を天上へ向けて、気だるい瞼を緩く閉じる。
――夢を、見ていた…気がする。それがどんなものだったのかはわからないけれど、それは確かな違和感をもって今も確かに僕の中にある。
その違和感は、気付いてしまえば些細なものだ。どうしてあれほどまで恐怖を覚えていたのか、むしろ、先程までの自分が可笑しいような気分にすらなっていた。
もう彼の姿も怖くはない。咽喉の痛みはひいていた。身体の熱っぽさは上がっているけれど、この程度、あの頃の長く続く発熱に比べたら――
「(あの頃?)」
…やっぱりまだ少し混乱しているみたいだ、ありもしない記憶がふっと浮かんでしまいそうで、僕は顔をしかめる。それを見た斎藤君は実に理想的な“心配”顔を披露してくれた。
「沖田」
「…ん、大丈夫、ごめんね心配かけて」
「近寄ってもいいのか。その、水を持って来たんだが」
「なんで君の部屋なのに入るのに遠慮してるのさ。いいよ、入っても」
許しを得ると、水を得た魚のように、斎藤くんは部屋に入って来た。体温計を差し出し、額に冷えピタを貼り、水分を与え、実にまめまめしく僕の面倒を見た上に、わざわざ布団を人の身体の上にかけ、隙間から冷えないようにと上からぽんぽんと叩いてくれる。今時こんな過保護な対応する人なんて土方さんくらいなものだと思っていた僕は、可笑しくてついつい笑ってしまった。
「大丈夫か?先程のあんたは、様子が妙だったが」
「うん、大丈夫。ごめんね?なんだか、君の心配そうな顔、もう見たくなくってさ」
「?」
「よくわかんない。君の悲しい顔、見たくないって思ったんだよね。自分でもよくわからないくらい強く。だから、逃げちゃった」
「どういう意味だ?」
「僕にもわからない。弱ってたから、情緒不安定だったのかも――」
僕の中には違和感がある。けれどそれは、口に出すことができないものだ。
僕は躊躇い、ためらった後に――なんでもない、と、そう口にする。
「沖田」
「なんでもない。騒がせてごめん。もう逃げないよ」
斎藤くんは不思議そうな顔で僕を見る。僕の中からは、ためらいは消えていた。
とにかくこの風邪を治さねばならないと、そう思った。そうじゃないと、斎藤くんに心配をかけてしまう。それこそ、そう、“あの時”みたいに。
「斎藤くん、」
「なんだ」
「僕ね、変な夢を見たんだ」
「…そうか」
「だからね、こわくなっちゃったのかも。…慰めて?」
「………」
はあ、と、溜息をついて、斎藤くんは呆れた顔だ。
「こんな状態のあんたを抱く訳にはいかない」
「別に、抱いてほしいなんて言ってないでしょ。添い寝してほしいなって意味で言ったんだけど」
「あんたが言うとそうは聞こえない」
「単に君の頭がスケベなんでしょ」
「…悪いが、隣にあんたがいて、手を出さない自信がない。その願いは叶えない方が賢明だな。あんたにとっても」
真面目にそう言うと、斎藤くんは真顔のまま立ち上がった。
「寒いのなら湯たんぽを持ってくる。あんたはもう少し眠れ」
「――、ん…」
添い寝してくれないのは残念だけれど、身体が睡眠を求めているのは確かだ。目を閉じればすぐに眠ってしまいそうな、ずるずると意識を持って行かれそうな倦怠感がある。そのことは少し怖いと思わないでもなかったけれど、彼の部屋だということが、僕に強い安心感を抱かせた。
目を閉じる。
先程よりも闇が優しく見えたから、僕は恐れること無く、そのまま意識を沈めた。