それは何気ないやり取りの中でいつの間にか芽生えていた、ほんの小さな芽だった。
それがいつの間にかあっさりと成長して、知らない間に、俺の行動を制限するまでに至っていた。

ようは何が言いたいかっていうと――ほとんど無意識だったのだ。

あれはそう、放課後、沖田と廊下でばったりすれ違った時。
あの時のことは鮮明に覚えている。
夕日の、鮮やかな赤が鮮やかで、廊下に落ちる影だけがいやにモノクロだった。
向こうから歩いてくる沖田は少し顔を伏せていて、俺に気付いているのかいないのか、どこかぼんやりとした顔つきで――髪がふわふわと揺れていて。
すれ違う瞬間、強気な瞳が俺を見た。鮮やかな夕日にも決して負けない、それは見事な翡色の瞳を持った男。
変に気まぐれでプライドの高いんだか低いんだかわからないこの沖田総司という男は、

「………、」

いぶきくん、と小さく唇を動かして、でも声も出さずにすれ違おうとした。
だから俺は思わずその手首をつかんで引きとどめたのだ。

引きとどめてから、自分でも驚いた。
どうして俺は、今、沖田の腕を掴んでまで呼び止めたんだ?
無自覚だったから自分でも驚いて、何が何だか分からなくなって、思わず俺は――

とても素直に、心からの、ありのままの気持ちを沖田に告白してしまったのだ。



「…っあああああー…」



そして今。ものすごく…それはもう物凄く後悔していた。
言われた直後のあの沖田の表情が忘れられない。
ものすごく不愉快そうな、冷たい目だった。…気持ち悪いと吐き捨てられなかったことだけが幸いだ。

「(俺だってこんな暴走するつもりなんてなかったんだよ!なかったんだ!なかったんだ…けどなあ…)」

男が男を好きになるなんて、一般的に言って普通じゃない。だから俺は伝えるつもりなんてなかったんだ。でもあの時、廊下で沖田の腕をつかんだとき、沖田が「何で捕まえたの」って顔でこっちを見たから――つい。

「(馬鹿なことをした。沖田が怒るのも当たり前だよな…怒ってる部分はなんか妙だったけど)」

しかもあれから、沖田の機嫌がすこぶる悪い。
遠くから見ているだけでも、沖田の半径2メートルくらいに、見えない壁ができている。
沖田が廊下を歩くだけで、ざっと人が道を避け。沖田のクラスなんてまるでお通夜のような静けさだ。
それもこれも沖田が不機嫌極まりない顔でむっつりと黙り込んでいるからである。
ひるむことなく声をかけることができるのなんて斎藤くらいのもので、最近では平助ですら、少し遠巻きに沖田を見ている現状だった。
日に日に機嫌が悪くなっていくその原因は――もしかしなくとも俺、だろう。

沖田はあれで、意外と身内を大事にする。
とはいえ、男に恋愛感情を抱かれていたとなると…さしもの沖田もいつも通りに俺に接するのは難しいのだろう。
たぶん、おおいに戸惑っているはずだ。
甘えたなあいつのことだから、俺が謝りに来るのを待っているような気がしなくもない。

「(でもなあ。言っちまった手前、前のような関係に戻るのは…)」

かといって、何もしないで疎遠になるのも……うーん。
うだうだと思い悩んでいたら、通りかかった斎藤に声をかけられた。

「井吹。暇か」
「お、斎藤。どうしたんだよ、珍しいな、あんたがここにいるなんて」
「風紀委員の見回りの最中だ。あんたを探していた」
「ん?俺をか?」
「ああ。あんたを、というよりは――風紀を乱す源を、と言った方が近しいかもしれないが」
「…、ええと、それは、どういう意味なんだ?」
「そのままの意味だ。正直に言わせてもらえば、俺がここで手を出すのは無粋なことだし気も進まないが…さすがにこれ以上放っておくわけにもいかないからな。あんたには、まあ、なんだ」

いけにえになってもらう。
斎藤は無表情に、そのような恐ろしい言葉を告げる。

「いけにえ?!」
「そう怯えなくともいい。一般生徒の代表として、ある人物に苦情を言ってもらうだけだ」
「ある人物って…」
「予想はついているだろう?総司だ。彼の者のせいでクラスが通夜のような雰囲気になっていると、一般生徒からの苦情だ」
「―――そ、それは、そうだけど。だからってどうして俺が、」
「どうしても何も、総司の機嫌が悪い原因はあんただろう。身に覚えがないのか?」
「……。ある」
「だろうな。ならばやはり井吹が行くべきだ。あの状態の総司に無傷で近づける人間など俺と土方さんくらいものだろうが…今の総司の気晴らしには、あんたを差向かわせることの方が有効だろう」

俺では無傷で済まないだろうが、それはそれ、これはこれ、…らしい。
言葉のとおり、それは“生贄”以外の何でもない。
頬がひきつるのを感じて、俺は首を振った。

「待てよ、俺が行ったら逆効果になる可能性は考慮してくれないのか?!」
「しない。どうあっても、今より悪くはならないだろう」
「なんだよその自信!」
「あんたこそもう少し自信を持てばいい」
「は、…はぁあああ?!」
「あんたは総司が好きなんだろう?」

さらり、と言われて、頭が真っ白になった。こんな廊下で暴露していいような話ではない。俺は慌てて斎藤の口をふさいだ。

「わー!!わー!!何言ってんだこんなところで?!」
「……何を慌てている、事実だろう」
「じ、事実かもしれないけどそういうことをこんなところで言うなって…!」
「別に大声では言っていない。大丈夫だ、井吹。総司はあんたを気に入っている、悪いようにはならない」
「…なんなんだよあんたのその自信は…はあ。わかった、わかったよ、俺が行けばいいんだろう?」

斎藤は肩を持ち上げるようにして、うすく微笑んだ。

「ものわかりが良くて助かる」
「それ、本人の前で絶対言うなよ。どういう暴走をしたもんだか、わかったもんじゃないからな…」
「わかっている。無傷では済まないかもしれないし、拗ねた総司は確かに手がかかるが…まあ、あんたなら大丈夫だろう」

身体だけは頑丈だからな。
最後に一言、気になる一文を追加して――斎藤はどうでもよさそうな一瞥をくれると、「逃がすつもりはない」とでも言いたげにがっしりと俺の腕をつかみ、強く引っ張ったのだった。






† † † 







そのままずるずると引きずられて、風紀委員室、である。

「………」

殺気で人を殺せそうな沖田と、机を挟んで向かい合っている。
とりあえずは引っかかれても殴られてもいないのに、すでに胃が痛いくらい睨まれている。

「(本気で怖いんだが…)」

俺をここにつれてきた張本人である斎藤は、ポイっと俺を部屋に入れて、バタンと扉を締めて出て行ってしまった。ご丁寧にも人払いをしてくれているようだ。
それよりも俺と沖田を二人きりにしないでくれ、と、訴えたのだが当然のようにシカトである。

「何なの君。なんでここにいるの。斎藤くんに連れてこられたの?僕、今、君の顔なんて見たくないんだけど。出てってよ」
「そういうわけにもいかないだろ…」
「なに、僕の言うことがきけなくて、斎藤くんの命令は聞くの?」
「いや別にそういう訳じゃ」
「じゃあどういう訳?」
「………」

うぐ。
沖田は、ただでさえ大きな瞳を、ぎらつかせて俺を睨む。相変わらずの整った上品な顔立ちが、怒りのためにほんのちょっぴり崩れていた。

「(…この殺気にあてられながら、怒った顔も可愛いとか思っちゃえる俺って結構大物かもしれないなあ)」

言ったら殺されるだろうから口にはしないが。

「斎藤の命令で、あんたに苦情を伝えに来たんだ」
「はあ?」
「ここのところあんたがあまりにも機嫌悪く仏頂面でいるから、雰囲気が重くて過ごしにくいとクラスのやつらから苦情があったらしくて…だからだな、そのことを、俺からお前に伝えるようにと」
「………」

沖田はそっぽを向く。無言だ。
――自分でも自覚はしていたらしい。

しかしまあ、そんなことをズバズバと指摘されたところで、反省してくれるような男では当然ないわけで。
それどころか指摘されたことで余計に沖田の機嫌が悪化していく。これ以上は本当に拳が飛び出しかねないと、俺は慌てて手を振った。

「いや、わかってるんだ。あんたが機嫌の悪い原因って、俺だよな?その原因を取り除きに来たんだよ」
「………どういうこと」

じ、と、俺を見つめる沖田の視線が、やけに真剣でドキマギする。
普段こいつと目があうことなんて、あんまりないから余計だ。

…というか、正確には俺の方から目を合わせるのを避けていた。
沖田のまなざしはとても素直だから、なんというか、怖いのだ。――何となく気持ちを悟られそうだから、というのがその理由にあたる。

「(もう気持ちが伝わってしまった今となっては、それもあまり意味のないことだろうけどな)」

俺は沖田の目をまっすぐと見つめながら続けた。

「だから、急に変な話をして悪かったって言ってるんだよ。不愉快なら、こないだ俺が言った話は、聞かなかったことに――」
「馬鹿じゃないの?!」

沖田はもう我慢がならないとでも言いたげに立ち上がって、背中を逆立てて怒った。

「馬鹿じゃないの、どうして君はいつもそうなの!勝手なこと言いふらしておきながら今更“なかったことに”って何?僕は、あんなこと言われてなかったことにできるほど、器用じゃないんだけど!」
「び、びっくりした…急に怒鳴るなよ、沖田」
「怒鳴りたくもなるよ、この馬鹿犬!そんな風に簡単になかったことにできるなら、最初から言わなかったらいいじゃない。僕は不愉快だなんて一言も言っていないのに勝手に決めつけて!僕の気持ちなんて全然、聞きもしないで!言うだけ言ってあとは忘れろだなんて…ッ」
「――」

何をそんなに怒っているのだろう。
まるでわからない俺は、とりあえず、どうどう、と宥めてみた。
火に油だった。

「聞かなかったことになんて、絶対、絶対、してやらないから!」
「ああもう、わかった!わかったよ、取り消さない!取り消さないからそんなに興奮するなよ、な?落ち着けって…!」
「…ふ…ッ、う、ううう…!」
「猫かあんたは。――ああ、もう…」

なんでこんなにかき回すのかなあ…。
かき回されるのが嬉しいなんて、ほんと、俺は馬鹿だ。

「…わかった、沖田。あんたの気持ちを聞こうじゃないか」
「…ふ…、う、え?」
「確かに、あんたの気持ちをまるで聞かずに、こちらの勝手な決めつけでモノを言うのはよくないよな。だから俺にも教えてくれよ。不愉快じゃなかったっていうなら、どうしてあんたはそんなに不機嫌になっているんだ?俺のことなんてどうでもいいなら、そんな風にならないよな?」
「………う」

お。
珍しい、沖田が困っている。先ほどまでの怒り心頭な様子がほんの少しひるんだと見えて、吊り上った目尻がほんの少し下がった。
まるで叱られる前に言い訳を口にする子どもみたいに、目を逸らして言う。

「ど、どうでもいいとは、…少なくとも思ってない」
「ということは?」
「言ったら君が調子に乗るから言わない!」
「はあ?!なんだよそれ、ちょっと期待したのに…!」

たぶん照れ隠しだろう。沖田はもう一度、先ほど座っていた椅子にすとんと腰を下ろした。ちょっぴり冷静になりましたよ、のアピールだろう。頬はそらしたままで、意地でもこちらを見ない。

「そんなの知らないよ。そもそもこうなったのも、君が僕をないがしろにするからじゃない」
「はあ?ないがしろになんてしてないだろ」
「してるよ、僕相手だといつもそうだ。目も合わせてくれないし、告白は無かったことにしようとするし!そんな勝手な人は嫌い。大嫌いだよ。僕は振り回されるのは好きじゃないし、なんだか軽んじられている気がする…」

そこで一度言葉を切って、沖田はほんの少しだけ弱ったような顔を見せた。

「…でも、僕のこと大好きでいてくれる井吹くんなら、…嫌いじゃないかもしれない」

ん?

「…ようするにそれは好きってことか?」

赤い顔で睨まれても、不思議とまったく怖くなかった。じっと見つめ返すと、沖田はまたほんの少し戸惑って、首を赤く染める。
ややためらう間を置いてから、勇気を振り絞ったように、顔を上げた。

「――僕のこと、好きって言え馬鹿犬」
「好きだよ。俺はあんたのことが好きだ」
「………」

ぽん、と、――それこそまるで茹でられたように。
驚いた顔で、沖田は今度こそ、隠しようもないほど赤くなった。

「…自分で言わせといて、なんだよその反応」

なんだかちょっと、訳が分からなくなるくらい可愛い反応を返されて、どうしたらいいものやらこちらも困ってしまう。


――ああ、そういえば、ここに来る前に斎藤が妙な話をしていたっけ。
猫は抱きしめると安心する生き物だとかどうとか。
なんでこんな時にそんな妙な話題をするのだとか、そもそもあいつ猫を飼っていたことなんてなかったはずなのに妙だなあと思ったが――成程。

ここで抱きしめろってことか。



腕を伸ばせば驚くくらいあっさりと沖田は俺に身体をあずけた。抵抗なんてまるでせず、ただ驚いたらしく大げさに身体を震わせて、固まっている。
沖田は椅子に座っているから、俺が抱いているのは沖田の頭のあたりだ。背中を引き寄せて、髪を撫でて、唇を寄せる。

「え、ちょっと、井吹くん…何…?!」
「何って、なに」
「な、なんで抱きしめ、…」
「いや、あんたが可愛い反応するからつい」
「……つ、つい…?」
「好きだ。あんたのことが大好きだ」
「…う、……えと、…いぶきく、」
「なあ。キスしてもいいか…?」
「……!」

もうどうにも気持ちが高ぶって仕方がない。
すりすりと髪に鼻先を押し付けて唇を寄せたら、赤くなったままの沖田が、照れ隠しなのか「ほんと、犬みたいだね、君」と呟いた。

「あー。俺、もう、犬でもいいかもしれない…」
「は、はあ?」
「あんたが可愛くてもうどうしたらいいかわからない」
「………」


沖田がおずおずと腕を伸ばして、ぎゅ、と俺の胴体の後ろで結んだ。少し身体を横に倒して、俺を見上げてくる。
美しい翡翠と視線がかちあって―――それが合図になった。








…誰かとキスをするのは初めてだ。


ほんと、「死んでもいいほどの幸福感」ってのはこういうのを言うんだろうな、なんて。


なんとも言えない、衝動のような愛おしさがこみあげてきて、俺はもう一度、自分の腕に沖田を閉じ込めた。