兄さんが残していったカロリーメイトは、当然のように全部僕が食べた。
それも、斎藤一が何か言いだす前に奪い取って無言で。
「総司」
僕のそんな対応には流石の斎藤一も困ったようで、むぐむぐ咀嚼する僕に、そんな風に名前を呼んでくる。
――いきなり名前呼びかよ、と、僕はむっとした。
親しくもない人間に名前で呼ばれるなどと気持ちが悪いだけだ。僕は思い切り彼を睨みつける。…まあ、ほんとうに気分が悪いのは、それよりもむしろ、きっと兄さんも同じ風に名前で呼ばれているだろうという事実の方だけれど。
とにかく。
「………」
僕はわざとらしくそっぽを向き、さらにカロリーメイトを口に放り込む。斎藤一なんて視界にも入れない。
「あまり急ぐと喉に詰まらせるぞ」
なのに彼は僕の態度など全く意にも介さず、思ったままを素直に口に出しましたと言わんばかりの天然っぷりを発揮した。
当てつけのためだけにわざわざ急いで食べていた僕は、むっとして彼を見た。確かにカロリーメイトってパサパサしてるからさっきからちょっと喉に詰まりそうになってるけど、そもそも誰のせいだと思っているのか――
――と、思った次の瞬間には、目の前にペットボトルが差し出されている。
「急いで食べると詰まらせる。何か口に含んだ方がいい」
「………」
「…?ああ、俺はまだ口はつけていないから、気にせず好きに飲むといい。あんた、緑茶が好きだろう」
あんたは僕の母親か何かか。
「…いらない。僕、知らない人からの施しは受けないって決めてるから」
「?知らない訳ではないだろう。あんたの兄は喜んでいたから、口には合うと思うんだが」
「軽々しく兄さんの話しないでくれるかな。不愉快」
「………」
斎藤一は困ったような顔をして(これはほんの少し気分がよかった)、出したペットボトルを引っ込める。無表情だけど、はてさてどうしたものかと思案するその様子は実にわかりやすかった。
「(――前世の沖田総司は、)」
そうだ。確か、この男のこういうところが好きだったのだ。
覚えている。
沖田総司が、血を吐いた時。血色を見ながら、動かしにくそうな唇で弱弱しく呼ぶ名前は、いつだって彼のものだった。
けして我儘は言わず、想いを口にすることも無く、淡々と一緒にいるだけに見えたけれど、沖田総司にとっての斎藤一はきっと唯一無二の何かだったのだと…そう、思う。
「(まあ、僕には関係ないけど)」
僕は沖田総司じゃない。記憶はあってもそれはフィルターを介して映画のように流れるただの映像で、それに対して思う所などない。むしろ沖田総司にとっての斎藤一を思うほど、「僕」の存在意義を揺さぶられるようで、不安な気持ちにすらなる。
「…俺はあんたに嫌われているのだろうか」
「嫌い?思い上がらないで欲しいな、僕が君に向ける感情なんて無いよ。ただ邪魔ってだけ」
「俺はあんたが嫌いじゃないんだが」
「………」
直球すぎる台詞に、思わずこめかみを押さえた。
「今、その台詞で君のことが少し嫌いになったよ。どうでもいいけど君、どうしてここにいるの?」
「あんたの兄に誘われたからだが」
「違う。そうじゃなくて、この病院にどうしているの。斎藤一が沖田総司の傍にいるって、どう考えてもただの偶然じゃないよね?」
「………」
彼はふと小さな息をついて、兄さんたちが出て行ったドアを眺めた。
「土方さんだ」
「え?」
「あの方が俺をここに連れてきた。あんたの察する通り、俺には前世の記憶がある」
「………」
やっぱり、としか思わなかった。
まあ、敵ではないのだろう。斎藤一は昔から沖田総司の一番傍にいて、その背中を預かっていた。敵ではないどころか、まあ、確実に味方である。
土方さんが呼んだというのはどうかと思うけれど(恋敵を自ら呼びだしてどうするんだあの人は)、味方である以上、そういった意味での警戒は必要ないだろう。
「…ちなみにその記憶ってどの程度残っているわけ?」
「すべて、と言う訳ではないな。断片的な記憶だ」
「ふーん」
興味無いけど、というふりをしながら、僕は最後のカロリーメイトを口に放り込んだ。
実際にほとんど、興味は失せたと言ってもよかった。
敵ではない。この男に対する評価などその程度で十分なんだ。
「あんたは本当に、総司の――兄のことが好きなんだな」
「………」
が。
もうほとんど徹頭徹尾無視をする態勢の僕に対し、唐突に聞こえたその台詞は少しだけ僕の注意を惹いた。
斎藤一は細やかな気配りができる男だったけれど、時々こちらが驚くほど無防備で無遠慮な言葉を投げかけてくる時がある。今がまさにそれだった。
別に無視をしてもよかったのだけれど、気がつけば口が動いていた。
「好きだよ」
当たり前だ。
兄さんのためだけに、僕は存在しているのだから。
…僕の答えをどう思ったのか、斎藤一はわずかに目を細める。
言うのもなんだけど、まあ、この人もとても綺麗な顔をしている。少し瞼を伏せただけなのに、こちらが驚くほど物憂げに見えるのは、もともとの造形がいいからだ。攻撃的なモノを何も含まない横顔、ともすれば気づかないような――けれど気づいてしまえば見入ってしかるべき、静かな美しさがある。
「(…いやいや)」
見てくれは確かにいいけれど、でも、絶対土方さんの方がずっと綺麗だし格好いいもの。
だから大丈夫だ。たぶん。きっと。
…先ほどこいつの膝にすり寄っていた兄さんの幸せそうな嬉しそうな寝顔を思いだすと、どうにも不安をぬぐえないけど…。
「…き、君の方こそどうなのさ」
「?」
「兄さんのこと、どう思っているの。会ったばかりだけど、君の場合は前世の記憶もあることだし――」
「好きだ」
「………」
ライバルでありませんようにと祈りながらの質問に、けれど返された答えには迷いはない。斎藤一は照れる気配も戸惑う動作も何一つせず、静かな、けれど低い声でそう短く言った。もう嫌な予感しかしない。
「好きってどういう意味で。友情?恋情?」
「どれでも」
「はあ?何それ」
「どんな意味でもあいつが好きだ。俺は総司が幸せならそれでいい」
「…なに、それ」
斎藤一は当たり前のことを話す口調で当たり前でない台詞をのうのうと口にした。
「“沖田総司”は、俺にとって特別だからだ」
「…なに?」
「前世での俺が何を思いどう行動したのか、おぼろげにしかわからない。だが、沖田総司という存在が俺にとってとても大切な何かであることはわかる」
「………」
「妙に聞こえるかもしれないが、俺は生まれる前から知っていたように思う。あれが、俺の生きる理由に足るものだと」
その、台詞は。
しかと理解できる類のもので――僕は身震いを隠すように、自分の腕を強く掴むしかなかった。
だって。
だってそれは、――僕のことだと、思っていたから。
兄のことを誰よりも考えている。兄さんのために生きている、僕は。
でも、きっとこの人ほど心が綺麗でも無いし、ここまで揺るがず願いを口にすることはできない。そう考えると、何故だか。何故だか酷く、…哀しいような気がした。
「“沖田総司”の幸せは、どこにあるんだろうな」
「へ?」
「“沖田総司”を、どうやったら幸せにできるのか。俺はそればかりを考えている」
「………」
この世界は。
きっと、“沖田総司”を救うためのお膳立てなのだと。
漠然と感じていた僕の不安を、――ぴしゃりと言い当てられた気がした。背中を走った怖気は、きっと、そのせいだ。
「…君が兄さんの幸せのために動くのなら、僕はそれを邪魔しないけど」
痛いほど斎藤一の気持ちがわかる僕は、やっとのことでそれだけを口した。
彼のことを許した訳ではない。僕は土方さんを応援するつもりだし、斎藤一がどう動こうと、それは変わらない。でも。
「(この人、本気で兄さんのことが好きなんだ)」
そう思ったら、なんとなく。傍にいるな等と言えない気分になってしまった。
「僕は、」
斎藤一は本気なのだ。本気で兄のことを考えている。土方さんや僕と一緒で、沖田総司の幸せを、本気で考えているのだ。
この気持ちをどう言葉にすればいいのか、僕はわからない。
――どうしてこんなに胸が騒ぐのだろう。そう思いながら僕は、忌々しいその横顔に、ほんの少しの切なさを感じた。
土方さんから兄さんを奪わないで。
僕から兄さんを奪わないで。
そんな台詞、どうあったって口にはできない。だって、
…どうせ僕は、いなくなるんだから。
兄の傍にいる人は、本当なら、一人でも多い方がいいんだ――
「僕は…兄さんが幸せになれるためなら、なんだってするよ」
「ああ、そうだな」
頷く気配に一瞬の迷いもない。その強さが、少しだけ、羨ましい。
「俺もだ」
そう告げた彼の声は本当に凛々しくて、僕は余計に、哀しくなってしまった。