「ひーじかーたせんせっ」

いきなり声をかけ、後ろから背中に蹴りを入れる。土方さんは、だがしかし後ろの気配が僕であるとわかっていたのか、たいして驚きもしなかった。
が、痛かったのは痛かったらしい。振り返るなり怒られる。

「総司。てめえ…」
「やっぱり煙草ですか。不健康ですね」
「うるせえ。何の用だよ」

用ってほどのこともないけど、と、僕は彼の隣に並ぶ。身体を少し投げ出すようにすれば、屋上の、透明感ある空はなかなかに気持ちがいい。

「用と言うほどのことではないんですけど――ねえ土方さん、僕と兄さんとの外出許可ってもらえます?」
「?」
「この病院から抜け出せたって、抜け出した先で路頭に迷うんじゃ世話ないでしょ」
「ああ…」

土方さんは屋上のフェンスにもたれかかったまま(このフェンスは肘をのせるのにちょうどいい高さをしている。自殺防止の気などさらさらないボロい風体だ)、身体を反転して僕を見た。

「下準備を終わらせてから移ろうってことか。お前らしい考えだ」
「どうするかって色々考えてるんですよね。僕と兄さん、いちおう高校くらいまでの知識ならば全部詰め込まれてますけど、学校に通ったことなんてないですし。ここから出たら、どうなるのかなー、って」
「ああ。その辺については俺が手回ししてやるよ」
「そうですか。じゃあ土方さんに後ろ盾になってもらって、まずは、住む家を探さないとですね」
「それについても心配いらねえ。俺が全部手配してる」
「……そうですか。さすが、兄さんの関わることになると頼れますね。土方さん」
「うるせえ」

土方さんはふいと顔をそらす。…もしかしたらこの人なりに照れているのかもしれないと思うと、それが少しおかしかった。
この人は兄に惚れているのだ。だからそれを、僕は遠慮なく利用する。

「ねえねえ、土方さん。僕、旅行に行きたいな?」
「はあ?なんだよおもむろに」
「いいじゃないですか、ずーっと、子どもの頃からこんなところに閉じ込められてるんですよ。旅行なんて行ったこと無いし。そろそろいいじゃないですか」
「却下だ。お前らはたまに発作を起こすだろう、んな奴らを連れて行けるかよ」
「それは土方さんがついてきてくれれば問題ないでしょう?」
「あのなあ――」
「それに、土方さん。兄さんにアタックできるチャンスですよ」
「はあ?」
「だって旅行でしょ、兄さんきっと喜びますし。プレゼントにはもってこいじゃないですか」
「どういう意味だよ」
「土方さんがあんまりじれったいので、ちょっと応援してあげようかな、って思いまして」

僕はてくてくと歩いて、土方さんの隣に立った。隣から見上げると、土方さんは不思議な表情で僕を見おろしている。

「土方さん、兄さんのこと好きなくせに、ほんとうに手を出さないんですよね。兄さん鈍いから、そのままじゃいつまでたっても恋人になんてなれませんよ」
「………」

土方さんは――やおら溜息をつくと、「くだらねえ」とだけ言って、僕の頭をぽかりと叩いた。

「痛っ、」
「子どもが妙な気を回すな。俺とあいつのことは、お前が気にする必要なんかねえよ」
「………」

この人はいつもこうやって煙に巻くような言動をする。兄さんを好きなくせに、と、僕は心の中で悪態をついた。この人の、兄さんを前にした時の柔らかい微笑みを僕は知っているだけに、どうにも手を出そうとしないのがもどかしいのだ。
土方さんは――まあ、いけすかない人ではある。格好つけだし、兄さんと仲が良いから僕もちょっと嫉妬しちゃうし。けれど筋は通った人だから、僕は、彼の事はそれなりに認めているのだ。

だから僕は、彼と兄が、結ばれればいいと思っている。
僕がいなくなった世界で、この人の腕のなかで、兄が安らかに眠れればいい。
それはとても幸せなことではないかと思うのに。

「(…子どもだから、とか、そういう理由なんだったら本当お門違いだよね)」

土方さんは、子どもを相手になんてできるか等と言うが、僕としてはそんなものお笑い草だ。毎晩僕といやらしい行為に及んでいるあの兄が、今更性的対象として見られたところで、気にするはずもあるまい。僕らはもう子どもではないのだ。

「兄さんも、土方さんが相手だったらきっと拒まないで抱かれると思うけどなあ――」
「そういう問題じゃねえんだよ」

あっさりと余裕ぶって言うこの男が少し憎らしい。
と、そこで、土方さんは手に持った煙草を指先で弄びつつ、僕に視線をよこした。

「なあ総司。お前、幕末の頃の記憶、どれだけ持っているんだ?」
「?……なんですか、急に」
「いや。少し気になっただけだよ」
「おぼろげに覚えている程度ですよ。子どもの頃のことはほとんど覚えてません。新撰組の事をおぼろげに覚えているのと、――あとはまあ、断片的な記憶です」
「そうか」

ふう、と吐きだした煙が空に流れて行く。それを何とはなしに見送りながら、ああこの人のキスはきっと煙草の味がするだろう、甘味好きな兄は嫌がるかもしれないと、どうでもいいことを思った。

「なんなんですか、急に」
「いや、なんとなく。どうして片方に前世の記憶があって、もう片方に記憶がないのかと思っただけだ」
「…単なる偶然でしょう」

舌を巻く気持ちで、僕は土方さんを見上げた。相変わらずこの人は鋭い。

記憶――確かにそうだ、兄の方に前世の記憶はなく、僕にはある。
けれど差異はそれだけではない。僕はあの時で言う羅刹に近いのだ。生命力に長け、銀髪に、緋色の瞳――ただあの頃と違うのは、僕には血を飲みたいという欲求がない。髪の色も何もかも生まれつきだ。
どうして僕がこんな風に生まれたのかはわからない。
けれど、何故僕の方にだけ、記憶があるのかと問われると、それは――

「偶然だよ」
「そうか?――まあそうかもしれねえが。俺たちの持つこの記憶は、どんな意味があるのかって、お前は考えたことがないのか」
「………」

土方さんは煙草を口にする。何が気に入らないのか眉間に皺を寄せて、それから、僕の頭に手を置いた。

「狂いすぎていて腹立たしいな、この世界は。こんな箱庭を作った神様とやらは、余程趣味が悪いんだろう」

携帯灰皿を取りだす仕草も堂に入ったものだ。
煙草を長指にひっかける、その仕草が少しだけ色っぽい。

「……そう、かもしれませんね」

ふう、と煙を吐いて、彼が思考したのはほんの数秒だった。

「総司」
「はい、なんですか」
「今から一週間、様子を見る。容態を見て一週間の間発作が起きないようなら、その旅行とやらに連れて言ってやるよ」
「え、ほんとですか?!」
「嘘言ってどうするんだよ。ただし、これから一週間、決められた薬を全部飲め」
「……えー」
「えー、じゃねえ。それと、二人とも俺から離れないこと。これも条件だ」
「ええ?二人とも?それじゃあ土方さんせっかくの旅行なのに兄さんと二人っきりになれないね」
「だからそういうことは気にするなって言ってるだろうが」
「まあ、僕は3Pでもいいけどさ」
「話聞け、てめえは」
「……その条件、飲むよ。ありがと、土方さん。兄さんもきっと喜ぶ」

兄は手負いの獣のように警戒心が強いが、ことそれが僕や土方さんになるとガードが緩む。きっと色んな表情を見せてくれるだろう。何せ初めてと言っていい旅行だ。

「…行き先はどうしよっかなー。僕、海に行きたいな」
「好きな場所選べ。つっても、俺が適当に車で連れ出してやるだけだけどな」
「それで十分ですよ、楽しみだな、どこに行…ってちょっと土方さん、なんで頭撫でるんですか止めてくださいよもう!」
「てめえが子どもみたいにはしゃぎまわるのが悪い」
「はあ?何それ」

なんでもねえよ、と言って笑う顔は認めるのも癪だが男前だった。

「(…兄さんにはこんな風に触れないくせに。ばーか)」

僕は彼の弟分だから、土方さんも触れることに躊躇いはないようだ。それは特別の証ではない。――むしろ兄が特別だからこそ、この人は触れないのだ。
兄を見る土方さんの目は優しくて、愛おしげで、大事にしよう、愛おしもうという気持ちが透けて見える。そう簡単に抱かないのは、本当に大事にしたいからだ。

そうでないと僕はこの人を認めなかった。だからそれはいい。それはいい、んだけど。

「(…大事にしすぎだ、どう考えても)」

この旅行で二人の仲が少しでも進展すればいい。
そんなことを思いながら、僕は上機嫌に笑った。