目が覚めると、そこに弟の姿が無かった。
「……ッ、」
まどろみなどすぐにたち消える。
心細さに立ち上がり、肌寒い冷気にさらされながら、上着だけをはおった。
「(…どこ、…なんで…っ)」
まさか弟の身に何かが、と想像するだけで、駄目だった。不安に突き動かされるようにフラフラと、広い部屋には不釣り合いなほど小さな机に近づく。
「あ、」
その、机の上に、弟の描き置きがあった。
「鬼ごっこしてくる」とだけ。宛名は無いし記名もないが、「僕の字だってことくらいわかるでしょ?」とでも言いたげな、走り書きの字だ。鬼は恐らく土方さんのことだ。彼の傍にいるならばと、僕は安堵に軽く息をつく。
「(――よかった、何もないみたい、だ…)」
昨晩はあまり寝ていない。ふあ、と欠伸をしつつ、けれど再度眠るには先程の焦りが抜けきっていなかった。だいち誰かが一緒にいないと寝れないのだ、僕は。
「…んー…」
なんとはなしに頭をかきながら、思考すること十秒。僕は外に出るため、簡易なスリッパに足を通した。
† † †
てしてしとスリッパは安っぽい音を立てる。すべるように床を移動しながら、僕はきょろきょろとあたりを見回した。作られた意図がよくわからない、何も無い細い廊下だ。こっちの方にはほとんど誰も来ないから人とすれ違うことすら稀である。というのも、普通の患者はこことは違う離れた建物にいるからなのだが、――
「あ」
「……?」
ただ、とても稀なことではあるけれど、“普通ではない患者”ならば遭遇することもある。
「ああ。あんたか」
不思議な、空の青を幾重にも重ねたみたいな、深い色合いの瞳と目が合った。整った顔立ちだけれど、どこか幽霊じみた様相の男だ。すらりと長い手足は細くて、けれど貧弱なイメージではない。しなやかな獣を思わせる体躯だ。身長はあんまり高くなくて、僕より低い。何が楽しいのか全身黒づくめで、彼はいつもここを闊歩している。
「……え、あ……ええと」
僕は少し困ってしまう。彼と出会うのはこれでたぶん5回目くらいで、そのすべてで僕は違和感を感じていた。
彼は不思議な力で僕の口をふさぐのだ。
それはもちろん物理的に、ではなく。
――緊張するとでも言うのだろうか、この現象をどう説明していいのかは、僕自身ですら掴みかねている。
初対面のはずなのに、「どこかで会ったことある?」と聞いてしまいかねない。そんな妙な既視感を、僕は彼に抱いていた。
「(下手なナンパじゃあるまいし。…でも、ほんとうに不思議な人)」
この間適当な医者に彼の事を尋ねてみたことがある。ここら辺をいつもうろうろしている、深い蒼の目をした男を知らないか、と。そこで掴んだ情報は実に些細なものだった――この人が、“幽霊”だなんて可笑しなあだ名で呼ばれているということ。どこの患者でどんな病気なのか、誰も知らない、ということ。
たったそれだけの認識しかされていないのだから、彼の存在が浮いて見えるのは仕方のないことだろう。
「……どうした?」
独特の低い、けれどどこか涼しげな声――妙に静かで、感情の抜け落ちたような語り口をするけれど、だからって本当に幽霊って訳じゃない、生身の人間だ。
…彼の前だと妙にペースを崩されていけない。こほん、と僕は軽い咳ばらいをした。
「僕はね、ちょっと人探し。君はそこで何をしているの?」
「別に何も。ただ身体を動かさねば鈍ると思って歩いていただけだ」
「へえ、そう」
「……あんたは誰を探している?」
「“僕”を探しているんだけど」
「ああ。もう一人の方か」
彼は察しが良い。今まであっちの方を歩いてきたが見当たらなかった、といった情報を提供し、――僕の格好をまじまじと観察してから、あからさまな溜息をついた。
「あんたは…またそんな恰好でうろつくのだな」
「え?」
彼はおもむろに自分が着ていた上着を脱ぎ、僕の肩にかけようとしてくる。僕は急に近づいた体温に驚いて、飛びのいた。
「……。何、急に」
「何、ではない。そんな薄着で、しかも薄いスリッパで出歩くな。ただでさえここは冷えると言うのに」
「ま、たしかにここら辺はすき間風が凄いけど、…って、だから、いいってば。寒くないから近づかないで」
「見ているこっちが寒い。いいから着けていろ、でなければ今すぐ部屋に戻れ。固辞するなら引きずってでも連れて行く」
うわあ、この人真顔だ。本気だ。
…それでも、僕が言う通りになると思ったら大間違いだけどね。
僕はへらへらと笑って見せる。
「おおげさだなあ。僕が大丈夫って言ってるのに――それに、連れて行く、って?君、僕の部屋知ってるの?」
「……。なら、俺の部屋に引きずり込む」
「へーえ。君って、やっぱりここの患者だったんだ。部屋なんてあるんだね」
「当たり前だろう。――それともあんたは、本気で俺を幽霊だとでも思っているのか?」
「………」
幽霊。
彼は自分がそう呼ばれていることを知っているらしい。あっさりとそう口にすることが、僕の興味を引いた。
こう見えて僕は腕っ節が強い。彼も鍛えてはあるみたいだけど(しなやかな体つきをしている)、喧嘩になれば勝てる自信もあった。それに僕に何かあれば、あの過保護な弟がどうにかしてくれるはず。
ついていっても問題はないだろう、というのが一つ。
そしてもう一つは――
「(ここの、患者、ねえ?)」
この病棟は特別だ。普通の患者などいない。
僕ら以外に誰か患者がいる話など聞いたことも無い。
だとしたら、彼は?
当人は患者だと言っているが、――その割に扱いは普通そうだ。見たところ、見える部位に得意な痣や採血の痕などは見られない。
こいつは何者だ。もし僕らの利用できる立場にいる人間だったら――
「ふうん…君、面白いね。いいよ。じゃあ、お呼ばれしようかな。僕のこと、暖めてくれるんでしょ?」
僕は妖艶に微笑んで、そう持ちこむ。彼は少し驚いたようだが、特に何も言わず、無言で僕の手を引いた。
† † †
彼の病室は整理整頓のされた、僕らの部屋よりも狭いところだった。それでもベットはそれなりに大きいし、テレビだとかパソコンだとか書棚なんかも存在している。本の数もそれなりだ。
「ねえ、君もやっぱり普通の病気じゃないの?それとも何かの実験でここに来たの?一人で?いつから?担当の医師は誰?」
「………」
入るなり質問攻めにする僕に、彼は一言も声をかけず、無言のまま棚に置かれたポットの湯をカップに入れた。手早く粉末状の何かを入れて溶かすと、そのまま僕に差し出した。
「ねえ、聞いてる?」
「聞いていない。それよりこれを飲め」
人の話を聞かず、手にカップを押しつけてきたと思ったら今度は薄い布だ。薄い布なのに特別な作りでもしているのか、やけにあたたかい。それをぐるぐると身体に巻きつけられ、
「ちょっと!」
「いいから座っていろ。あんたの話は後で聞く」
そう言いくるめられた。
…さっさと話をすませて帰りたいんだけど。
僕はややむっとして――けれど温かい布にくるまれるのは案外気持ちがよかったから、自分でぐるぐると身体に巻きつける。
「…暖かい」
「当たり前だ、そんな薄着でうろうろするからだろう」
彼は僕にベットに腰かけるように指示すると、自分は座り心地の悪そうな椅子を引っ張り出してそこに座った。
「………」
なんとなく。彼の雰囲気に呑まれているのは、悔しいけれど。
この男の独特の雰囲気の前だと、僕の持ち前の毒舌は、なぜかあまり発揮されなかった。否――なんとなくだけれど、発揮させたく、なかったのだ。
「?」
自分でも首を傾けつつ、このままだとこの人は何も口をきかないだろうということも何となく予想ができたから、僕はベットに腰かけた。
「話の腰を折ってすまなかったな。で、なんだ、あんたは俺に何か質問があるのか?」
「………」
…なんか、やりにくいな。彼は僕を客として扱うつもりでいるらしい。
調子を取り戻そうと咳払いをして、それがなんだか空々しく響いて、――ああもう、やっぱりなんだか妙な気分。
とにかく、だ。彼は何者なのかをつきとめなくては――
「君はどんな病気なの?」
「厳密には、病気という訳ではないな。俺は体質が少し特殊だから、それについて実験をさせてくれと要請されてここにいるだけだ」
「へえ。じゃあその体質って言うのは?」
「それは言うなと医者に言われている」
「………」
へえ。
「じゃあ、君の担当のお医者って誰?」
「それも言うなと言われている」
「そう」
成程、つまり僕らと似たような環境と言う訳だ。
この病棟は人目にさらしたくない者たちを集めるためにあるようなものなのだから、彼も相当後ろ暗い訳があって、ここに閉じ込められているのだろう。
僕は同情なんて生ぬるい感情は抱かない。
彼に近づくことで外とのパイプが生まれないかと言う淡い期待はここでたち消えた。それだけだ。
彼はそれなりに頭も回る人のようだし、――正直やりにくい。
「他には?」
「ん。…そうだね…他には…」
「………」
何かないかと探す僕に、彼は椅子の上から、やれやれと言った感じに溜息をついた。
「あんたは変な奴だな」
「…何、急に。君に言われたくないんだけど」
「普通、一番最初にするべき質問があるだろう。あんたはどうしてそんな、どうでもいいことばかり聞くんだ?」
「?」
何を言っているのだ、と、僕は顔をしかめる。
彼は――意外なことに、僅かに微笑んだ。
「普通、こういう時の質問は、名前を聞かれるものだと俺は思っていたんだが」
「………」
あ。ああ、そっか、すっかり忘れていた。
確かにこういう時は、普通、名前から先に聞くべきだ――
「(でもそんなの、僕に言われても)」
僕は普通じゃない。そんなもの、この病院内での一般常識だと思っていたから、そんな扱いを受けることが僕にとっては違和感なのだけれど。
「あんたは直物的だな。俺を利用して利になる情報を得ようと思ったのなら門違いだ」
「………だって君の名前になんて興味ないもの」
少し焦りつつ、内面を押し隠すように、手に持ったカップに唇をつけた。温かいホットレモンは、猫舌の僕にはまだ少し熱くて、すぐに舌を引っ込める。彼はそれをどこか可笑しそうに見ていた。――何故だろう、変に気恥ずかしい。
「(名前、なんて。その場限りの付き合いなら聞く必要なんてないじゃない。今までの相手は皆そうだったし、)」
それに何より、病院内の情報を彼から得ようと画策していたことを、あっさり口に出されたことも衝撃だった。わかっていて彼は平然と僕に接しているらしい。悪意を持たれている気はしないのに。
「(何だろう、なんだか、やりにくい…)」
落ち着かない。どうしてこの人は平然と僕を見るんだろう。弟や土方さんは例外だけど、他の人間なんて、僕らに気を許さないよう、気張った雰囲気を発する人ばかりだったから戸惑う。彼に気負った部分が全く感じられないのが恐らくその原因なのだろう。それどころか、弟でも見るみたいな目で僕の事を見ている気すらする。
「………」
「?どうかしたか」
「!いや、何でも…ないけど」
何を考えているんだ。彼なんて、…まあ、日常会話くらいしたことならあるけど、それでも擦れ違い様に二言くらいの短い会話しかしたことなかったし。名前だって知らないくらいだし。利用できそうもないし、正直、どうだっていいはずの人だ。今すぐこのカップを置いて、自分の部屋に戻ったっていいくらいだ。
「………」
…なのになんでこの人のこと、こんなに気になるのだろう。懐かしいだなんて、そんな、会ったことも無い人間に抱く感情じゃないのに。
「…そんなこと言う君だって、僕の名前知らないんじゃないの」
「知っている。沖田総司だろう」
「?なんで知ってるの?」
「まあ、とある伝手からな。いずれわかる」
「へえ。生意気に出し惜しみするわけ」
「出し惜しみの塊みたいな男が何を言う。俺は、あんたから直接に聞いた情報など一つも持っていないぞ」
ほとんど初対面の癖にやけに馴れ馴れしい。そして僕も、そんな彼の行動に、何故か違和感を感じない。
「(変だなあ)」
僕、この人のこと、結構、なんだか、その。…好き、かもしれない。
この場所がいやに居心地が良い。
「……ふあ」
思わず安堵に欠伸を漏らしたところで、目ざとく声をかけられた。
「眠いのか?」
「ん。あー、うん。昨日あんまり寝ていなくて」
「眠いならそこで寝てくれても構わないが」
「んー…んーん、いいよ、遠慮しておく」
遠慮なんて口先だけだ。そもそも僕は、誰かに抱きしめてもらわないと眠れない。どれだけ睡眠不足でも、心を許した人の腕の中でなければ眠れはしないのだ。外ではもちろん言わないようにしているのだけれど、弟はそんな僕のことをよく知っているから、毎日僕を抱いて眠ってくれる。まあ、そのままいやらしい行為に及ぶこともあるけれど――そしてそのせいで昨日は眠れなかったわけだけれど、そんなものこの人に言ったって意味ないし――
「…ふあ…」
ん、あれ?
変だな、なんだか、すごく眠たい。薬でも盛られたのかと一瞬訝しく思うが、そんなはずはない。僕の身体は薬が効かない体質なのだ。余程強い薬でもなければ効果などないはず――そして僕は、そういった薬にはすぐに気付くはずだ――だから、薬を盛られたという危険性はない。なのにこんなに眠いのは、
「(あれ?あれ?…、え?)」
誰かに抱きしめられているような、不思議な安堵感があるから、というのがその答えだろう。自分でも驚いてしまった。
…眠たい。
「どうした?」
「ん…いや、別に…」
「眠いなら寝ろと言っているだろう。俺は別に眠くないから気にするな」
彼は何をたくらむでもなくそう口にする。僕を眠らせてどうこうしようという悪意は全く感じられない。僕はとても驚いていた。
この僕が。あの弟や、土方さんですら、抱きしめてもらわないと眠れないこの僕が。ほぼ初対面に近いこの男の傍だと、眠れると言うのだ――
「あ、あの」
「?どうした。妙な顔をして。眠いのだろう?」
「いや、なんか、眠くなれたという驚きに目がさえちゃった」
「?妙なことを言う男だな」
「いや。あの。えーと」
ぐるぐると、思考が回る。僕は少し混乱していた。
彼はそんなことなど気にも留めず、咽喉の奥にとどめるような僅かな笑みをこぼした。眠いなら寝ればいいと、親しい友人を前にしたように言う。
「見ての通り俺は暇だ。あんたさえ良ければ、また話し相手になってくれるか」
「え――」
「本は読み飽きたんだ」
彼はいつもの通り淡々とした喋り口で、けれど不機嫌には聞こえない不思議な低い声で、そう言った。
「…どうかしたか?」
「え?あ、いや――うん。ええと、それ、どういうこと?」
「どういうこと、とは?」
「……話し相手って…僕が?」
「当たり前だろう」
普段鋭い表情の彼が不思議そうな顔をすると、ちょっと間の抜けた親しみのある表情になる。それにも驚かされて、僕は――いやに新鮮な気持ちで、彼をまじまじと見つめた。
「あんたが暇な時、いつでもここを尋ねてくれて構わない。俺も大抵はここにいるからな」
彼はそう言うと、僕の視線など気にした風も無く、自分の分のホットレモンを入れるべく立ち上がった。