夢を見た。
総司が笑っていた。いたずらな瞳を細めて、「一くん、僕以外に恋人をつくってもいいよ。不義密通だなんて思わないから」と、唇を震わせる――そういう、夢だ。それは歌うようなリズムですらあった気がする。痛みなど感じさせもしない微笑みに酷く違和感を覚え、俺はそうと知れない程度に唇を噛んでいた。この場所、この時刻、この状況で、病によって侵されたその身体を横たえての言葉としては、それはあまりにも重いというのに――まるでどうでもいいことのように口にする総司が、怖かった。
あまりに美しいものを見ると、人間は恐怖すら抱くらしい。
「何だと?」
「だって、僕はこの身体だし。まあできる限りは君の性欲に付き合っていくつもりだけれど、それでも限度があるじゃない?これから先、君の相手が満足にできる保証もないんだし――だったらいつまでも君をつなぎとめておくのも悪いかなって。別に島原に行ってもいいし、他に恋人を作ってくれたっていいんだよ?」
「…どういう意味だ」
思わずこわばる声に、沖田は「怒らないでよ、怖いなあ」と言い、微笑んだ。
「…そういう、意味だよ」
ああ、沖田は俺を手放そうとしているのだと、気づいてしまったことが悲しかった。聡いこの男はもう先のことを見始めている。
総司は、自分が俺にとって重荷となることを恐れていた。「忘れていい」と、それはそういう意味ではなかったかと思う。
…その時俺は何を思ったのだろう。
そういったことを理解できてしまう自分が悲しかったのかもしれない。俺と総司は、もうそんなところまで来てしまったのだと――それはそういった種類の諦観だった。
だが、それでも。
「俺はあんた以外と恋仲になる気は微塵もない」
「………」
その時その場の俺が、一瞬確かに泣きそうな顔を見せたくせに、次の瞬間には照れたように笑うこの男のことが、心の底から愛おしいと思ったことだけは、確かだ。
総司がいなくなるかもしれない。それは恐ろしいことではあったが、それでももう、手放してやれそうもなかった。
――総司は。
俺を信じていない訳ではない。自分がいる間、俺が浮気をすることなど全く考えてもいないだろう。だからこれは、自分がいなくなった後の、長い時間を想っての言葉だ。俺が意外に寂しがりなのを知っているからこその、言葉だった。
総司は俺の返答がよほど嬉しかったと見えて、「そういうつもりじゃないんだけど」とごにょごにょ呟き、照れた頬をそらせた。
「その言葉だけで十分だよ、一くん。一応言っておきたかっただけだから。僕に気兼ねする必要なんか全くないんだってことを言いたかっただけ」
「別に気遣っているわけではない。あんた以外としたって面白くないだけだ」
「…君ってそういうところ率直で、ずるいね」
堪えようがなくなったのか、くすくすと笑う。細くなった指や腕が切なくて、寄り添うように指を握れば、その笑みはすぐに引っ込んだ。じっと、握られた指を見つめている。
「一くん、」
「なんだ?」
「ん。いや、何でも。僕って意外と幸せなんだなあって、思って」
「………」
「君にね。…甘えても、いい?」
ぎゅっと握り返された指は、滑稽に震えている。俺は頷きを返した。
「あのね、一くん。他に恋人作っていいよって、言っておいて何だけど。でも、僕は、君が好きだよ」
「ああ」
「君のことが好き。大好きだけど――でも、だから、いっこだけ、一つだけでいいから、我儘言ってもいいかな?」
「何でも。好きに言えばいい」
「………」
震える指先を少しも離さず、総司は「いいの?」とでも言いたげな目をして、それから、閉じた。
「くちびるを、」
「…?ああ」
「君の唇の味をね、僕だけが知っていたい――んだけど。たとえ他の誰を抱いたっていいし、誰と婚姻したっていい。でも、その…口づけの権利だけは、僕にくれないかな。僕の唇の感触、君におぼえてて欲しいから」
他の誰かとしたら、かき消されちゃいそうだから。そう言って、何とも言えない静かな目で、こちらを覗き込む。
総司とは、もう長い間口づけをしていなかった。理由は簡単で、病がうつるのを嫌がって、総司が俺を拒むから、だ。
本当は今だってしたいのにおあずけをされている俺は、眉をしかめたと思う。それを見た総司はゆるく笑った。
「これはね。願掛けでもあるんだ」
僕の病がなおったら、たくさんしようね。
――そう言った総司の顔はとても綺麗で、俺は何も言えなかったことを、強く強く覚えている。
それは、そういう――夢、だった。
目を開けたら、そこに総司の顔があった。
人の寝顔をまじまじと観察していたのだろう、とろんととけるような甘い瞳は、はっと気づくなり、すぐさま不機嫌そうなそれに変わった。
「なんだ、もう起きたんだ?」
「……あんたは何故俺の顔を覗いている?」
「寝顔は意外と幼いんだね。珍しかったから写真にでも収めてやろうと思ったんだけど」
ふふん、としてやったりな顔だ。俺は溜息をつく。
「(――今は、)」
幕末ではない。あのときとは違う、平らで和やかな、世界だ。まるで冗談みたいに優しい、世界だ。
「…どうしたの、何か妙な顔してるね。…変な夢でも見た?」
総司が人の感情の機微に敏感なのは今も昔も変わらない。すぐさま看破された俺は薄く笑みを広げるしかなかった。健康そのものの腕を握る。触れれば少し驚かれるが、拒絶はされなかった。
「(ああそうだ、あの時、総司は恥じていた。細くなってしまった自らの腕を、剣を握ることすらできない己の手を、恥じていた。病によってより細くなっていく腕を、いつも布団の下に隠して。強がって、笑って、決して泣かずに――ひとりで)」
だから俺は。俺だけは。
その細い腕を伸ばそうとして、いつも寂しげに微笑む総司を。どうしても俺に触れることができなかった男のことを、忘れることができないのだ。
「…斎藤くん?」
「あんたは――」
「?」
「生まれ変わりを、信じるか?」
唐突に問われて、広がる瞳の淵を俺は見据えた。ええと、と、小さく戸惑う声はあの頃よりも少し高い。
「信じていると言えば信じているけど、信じてないと言えば信じていないかな。どうして?」
「いや、気になっただけだ。あんたはどうなのだろうと」
意味はないのだろうが、総司は考えながら、わずかに首を傾けた。
「生まれ変わりがあってもなくても僕は別に構わないけど、基本的には信じていないかな。生まれ変わりがあったとしても、生まれ変わった先で僕の記憶がないんじゃ、それは僕じゃないと思うから」
「あんたらしいな」
「…それ、どういう意味?」
「そのままの意味だが?」
「なにそれ、」
むっとしたまま、総司は目を吊り上げる。怒った顔をする総司の指を握った。
「!」
何か期待でもしてしまったのだろうか、総司の顔が赤く染まる。なんとはなしに指の腹を撫ぜただけで、総司は小さな悲鳴を上げて俺から逃げた。
「…なんだ?」
「な、…べ、別に何もないよ」
他意はないつもりだったのだが、と、俺は溜息をつく。
総司は怒ったまま、さっさと部屋を出て言った。たぶん紅茶でも入れてくるつもりなのだろう。
「………」
その背中を見送りながら俺は、総司はいつ記憶を取り戻すのかといったことを、ぼんやりと考えていた。
夢の名残は今、台所に立っている。再び目を閉じようとは、思わなかった。