随分と平和になったものだ。ざわざわと騒がしい廊下を歩くたびにそう思う。
自分の意地をかけ、刀を取って戦うなどと、言葉にするだけで笑われる時代。意地を通すのに命を賭ける必要も無いなどと――本当に、平和になったものだ。
「(総司も――変わった)」
当たり前だ。総司には前世の記憶がない。ぬるま湯のような時代の中で、平和に――少しばかり見目の良すぎる点を除いては、ごく普通の学生として生活を営んでいる。変わるなと言う方が無理だろう。あの頃とは違う衣服を身につけ、剣術は使えるが人殺しなど知らない。自らを新撰組の剣だなどと形容することもない。それに外見的な面でもそうで、今の総司は、試衛館で俺が総司と初めて出会った年齢よりも若いのだ。幼さを残した顔だちや、そこまで自分と変わらない身長など、見覚えのないものばかりである。
――だが、総司のその根本は変わっていない。誰よりも愛していたからこそ、それがよくわかるのだ。声も、くるくる回る表情も、不器用な愛情表現も意思の強さも、すべて自分が想う彼のまま。恋仲であった幕末のあの頃よりも子どもだが、確かにそれは沖田総司だった。当然俺は総司を愛しているが、うぬぼれではなく、恐らくこの総司も同じ感情を返してくれている。
彼の中にもうっすらと前世の記憶は残っているのだろう――だから俺は、総司が記憶を取り戻すのを待っているのだ。
「………」
待っている、のだが。
「……沖田」
ざわざわと騒がしい教室を抜け、風紀委員の部室へ向かう途中には、いくつか曲がり角がある。そこから音楽棟やら何やらにつながっているのだが――人気のないその曲がり角には、少し出っ張った壁がある。建築ミスではないかともっぱらの噂の、用途の無い窪みのような場所だ。大きさなどを考えるに掃除道具入れでも設置するにはいい塩梅なのだが、その案は未だ採用されていない。そんな、謎の窪みに挟まれるような形で、なんとか隠れきれていた――と当人は思っているはずの茶色の髪がひくりと揺れた。
「………」
それでも、諦めて姿を見せるようなことはしない。ずずっと身体を壁にこすりつけるみたいに、総司はもっと奥へ引っ込んだ。そんなもの、俺がその場まで歩いて行けば全て無駄な抵抗に終わるのだが――まあ気分の問題だろう。
「やはり、あんたか。俺に何か用か」
「…何の話?君に用なんかあるわけないじゃない」
「じゃあなんでそんな不自然な場所で待っている?」
「待ってなんかないよ」
待ち人がいないと言うならば、何故わざわざ部室の通り道にいるというのか。この場所を通るような奴は俺ぐらいなものだというのに、苦しい言い訳を口にするものだ。
不思議に思っていると、一目で“拗ねているのだ”と察する程度に怒った顔をした総司が、そらしていた顔をまっすぐ俺に向けた。
「…斎藤くんって、思ったよりプレイボーイだったんだね」
「なに?」
この時ばかりは、目をそらされない。引き結ばれた唇をほどいて、その薄い唇は、それはなめらかに動いた。
「今日、校門のところで、僕の知らない女の子と長い間喋ってた」
「ああ…彼女は風紀委員のメンバーだ。職務について話していたに過ぎない」
「でも、何か貰ってたし」
「菓子が余ったから処分を手伝えと言われただけだ」
「…ふうん。僕には、まんざらでもない風に見えたけど」
「………」
なんというわかりやすい妬き方をする男だ。俺は鈍感だがそれくらいはわかる。…が、単に妬いているだけかと思って軽く否定すると、あしらわれたと感じた総司の瞳は余計に険しくなった。
「ねえ。さっきの子、誰」
「だから風紀委員の――」
「斎藤くんの彼女?」
「違う。俺はそのようなものは作らんと前も言っただろう」
「どうせ信じないから無駄口叩かなくていいよ。…ああそうか、勘違いをしないで欲しいんだけど。僕はねえ、別に女の子と仲良くしていたことを責めている訳じゃないんだよ?」
「………」
思いっきり責める口調じゃないか。
「君が誰とイチャつこうが、どうだっていいんだ。僕は君の恋人じゃないから、君が誰と付き合おうと口出しできる立場にいないし?」
「だから違うとさっきから、」
「そうじゃなくて!僕は君が好きだって以前言ったよね。なのにキッパリ振るでもなく受け入れる訳でもなく、いつもつかず離れずの距離にいて、たまに手を出したり出さなかったり好き勝手なことばっかりして――なあなあなまま僕の気持ちを放っておくなんて。どれだけ残酷なことをしているかっていう自覚が君にはあるのかって、そのことを僕は怒っている訳だけれど」
「………」
「せめて見込みがないってことくらい、きっぱり言ってくれないと僕だって困る」
せいぜい弱音らしく聞こえないようにと、震えそうになる声を懸命に抑えつけているのだろう。総司は唇を強く噛んで俺を睨んだ。
――そう言われても、と、俺は軽く肩をすくめる。
その説明は前にもしたはずだ。同じ話をニ度言っても意味はないだろうと思ったのだ。
けれど、反応がなかったことがお気に召さなかったらしい。総司はぐいと俺の肩を押した。どけ、とでも言う風に、睨んでくる。
「もういい。僕は君を嫌いになるためのあらゆる努力をするから。もう君も、二度と僕に話しかけないでくれるかな」
「…そう言って、未だに屋上で毎日俺を待っているのは誰だ」
「…っ、…もう行かないよ」
「あんたが、俺に会わずに我慢できるとでも?」
寂しがりなのを知っているから、俺の口調は自然と笑みを含んだものになる。逃げようとする総司の手を取って、軽くにぎるだけで総司は一瞬動きを止めた。
押しのけようと思うなら本気で来ればいいだけの話だ。だと言うのに、それどころか俺はあっさりと総司の手を取り、その動きをいとも簡単に封じることができる。――それはつまり、そういうことなのだ。
「(…わざわざ逃げ場のない場所までセッティングして、自分でそこに入り込んで)」
そう思うと、笑いが止められない。総司は俺に触ってほしくて仕方がないのだ。嫌だ止めろと言いながら、抵抗らしい抵抗などしたこともない。手を出したら出したで怒るくせに、出されなかったら出されなかったで寂しさに耐えられないのだ。――自ら逃げ場のない状況を演出するなどと、これではもっと追い詰めてほしいと言っているようなものだろうに。
ムキになったらしい総司は、なんとか俺の手から逃れようともがきながら、何やら怒っているようだった。
「あのねえ、僕だってそれなりにモテるんだよ。新しい恋人ができたら、斎藤くんなんてすぐ忘れちゃうかもね」
「できるならやってみろ」
「……ふ、ふうん。それ、僕なんか惜しくないってこと?」
「あんたはできないと確信しているからな」
総司はもともと恋愛に積極的なタイプではない。それどころか、好きだからこそ傷つけて、なんとか自分に近づけまいとするような所があった。幕末の頃には俺も何度かやられて歯がゆい思いをしたのでよくわかる。あの頃は、新撰組の剣として戦うことが第一だから――と言った理由で、ずいぶんと遠回りをさせられたものだ。
「あんたは、俺以外に抱かれても気持ち良いなどと思えんだろう?」
総司の顔に朱が走った。大きく開かれた目に、瞬時にきゅっと眉が上がる。
「…そんなの試してみないとわからないじゃない」
「試すまでも無い。あれだけ俺の前で乱れておきながら、よく言ったものだ」
「五月蠅いな!」
頬だけではない。耳までうっすらと赤がのびた。
「…っほんとにしちゃうからね。僕を手に入れたと思って鼻をくくってる君に、目にモノ見せてやるんだから」
「できないことをできるかのように口にするな」
「できるよ。君ってさ、どんな風に振る舞ったって僕が君から離れられないと知ってるからそういうことするんだろうけれど。でも僕だって、傷つくのは嫌なんだ。君みたいに不誠実じゃなくて、もっと僕のこと大事にしてくれて、君なんかより優しい人だってきっとどこかにいるんだから――だから、その人の所に行っちゃったって、僕は君に責められる言われはないんだから。だから、」
「………」
「…それが嫌なら、僕のこと放っておかないで」
本当は、責める口調で言うつもりだったのだろう。けれど最後の一文だけはその勢いが削がれて、本心がそのまま出てしまったとでも言いたげな、懇願するかのような口調になってしまった。言いきってしまってから、総司は慌てたような顔をする。そして俺の顔を見ることすらできなくなって、顔を俯ける。硬くなった身体を何とか俺より離そうとする。そのどれもが、この男がこうまで弱気になった姿と言うものを見たことがない俺にはとても新鮮だった。愛らしいというか、――いじらしいと言うか。
「ほう。あんたは、寂しさのあまり俺以外に抱かれる気でいる、と?」
「き、君は意外とヤキモチ妬きだから、嫌なんじゃないの?そうなったら」
「嫌か嫌でないかと言われれば、この上なく嫌だが。考えただけで気が狂う」
「だったら僕を、ちゃんと恋人にしてよ」
「………」
これだ。
困り果てて、俺は総司を見つめた。総司も目をそらさずに、じっと俺を見つめている。
――否、睨みつけている。顔が赤いのでそう威力は無いが、まるで親の敵でも見るかのような目である。
「(俺だってさっさと自分のモノにしてやりたいとは思う。思ってはいるが――)」
約束を守らなくてはならない。
あの約束だけは、絶対に、譲る気はなかった。
「…あんたの気持ちに、今、応えることはできない」
だから俺は静かにそう言う。
総司の泣きたそうな顔を見た時は思わず自分を蹴り倒したくもなったが、それは耐えた。ふっと力の抜けた総司の手を力強く握りしめる。
「今は、だ。俺とてあんたを手放す気など毛頭ない」
「………」
言葉が出ないようで、総司は、ゆるゆると俺に握られた手を動かした。なんとか逃れようとするのを、逆に強く絡め捕る。
「俺が恋い慕うのは、あの頃からずっとあんただけだ。他の女は目に入らない。だから待っていろ」
「………っ」
逃れようともがいていた手のひらに、軽く力がこもる。手を握り返されて、――総司の大きな瞳が潤むのが見えた。ああ、この総司はまだ子どもなのだと、思う。幕末の頃の総司は、――たとえどのような場面でも、泣くような男では決してなかった。
とはいえ、今の総司だって根の部分は変わらない。今まで他人の前で泣いた経験などないのだろう、自分でも信じられないと言った顔で、懸命に涙をこらえている姿を見ては、いてもたってもいられなくなるのはこっちだった。
指で目尻の涙をぬぐってやる。見ないようにしてやるのが本当は一番いいのだと理解はしていても、総司の涙なんて珍しいものを見逃す気は毛頭なかった。自分もたいがいに酷い男だなと思いつつ、顔を覗き込もうと身を寄せると、総司は当然のように嫌がって身体をねじる。それを許さず肩を押さえつけて無理矢理こちらを向かせると、掴んだ肩から怯えの感情が伝わってくるようだった。震える肩のその細さに、ああ、やはりこちらの総司は幼いのだな、と思う。
――ひとたび涙がこぼれてしまえば、後を留めるのは難しい。次から次へと溢れる涙に、自分でもどうしていいのかわからないようだ。混乱した様子で、縋るように俺を見る。
「…君ってほんと、最低」
「沖田。俺は、」
「いい。君の言葉なんか聞きたくない…君なんか嫌い」
「そうか。俺は好きだが」
「………」
ひく、と、小さく総司の咽喉が悲鳴を上げる。混乱しているのもあって、声すら上手く出せないようだ。涙をとどめようと細い指が懸命に瞼の上をこすりつける。その手を取れば、水を含んだ美しい翡翠に、非難の色が混じった。
こちらに罪悪感を覚えさせるような、立場の弱い者の抗議の瞳だ――弱っているのはこちらだと言うこともできず、俺は僅か途方に暮れる。
「…こういう状況でもキスしてくれないなんて、君ってホント最低だよね」
「セックスならできるが」
それは、「こう言えば真っ赤になって怒ってくれるか」程度の、俺なりの冗談のつもりだった。だが、
「……じゃあ、それでいい」
あっさりそう返されてしまい、逆にこちらが動揺する。
身体を離そうとする前に、すん、と小さく鼻を鳴らした総司が、俺にすり寄って呟いた。
「しよ。…僕のこと、当然慰めてくれるんでしょ?」
俺の理性がもたなくなるのに、何分必要だろうか。
今日の部室に人が来る可能性は――などと現実的なことを考えながら、俺は総司を抱きしめるため腕を伸ばした。