「よしよし、んじゃあ愛の言葉について話でもして遊ぼうぜ、美少年」
常に何処か笑みを含んだ声は、自分のそれとは似て非なるものであると今更のように再認識する。
彼はいったいどれくらいの人間を欺いてきたのだろう。
ぼんやりと歩く早さで通り過ぎたそんな思考は、おそらく何の意味も無いであろうことが、こちらは訂正する如く小走りで追いかけて来て同じく過ぎ去った。
脱色されて痛みきった頭髪の間から焦げ茶色の瞳が楽しげにこちらを見上げているのは、もう随分と前から知っていたことなので、示し合わせたようにぴったりと視線が交差しても僕は別段驚きはしない。
「愛の言葉、ですか」
漠然とした議題に、能が無いと思いながらも鸚鵡返しに聞き返した。
この人の前では無意識のうちに微笑を失ってしまいがちな僕とは対照的に、彼は子供に対してするように自然に笑いかけて、「うん」と成人を迎えたにしては幼い口調で応える。
同居人に気を遣ってか、アパートから出て車止めに腰掛けて煙草を吸っていた彼――僕も同じく、なのだけれど――を遠目から見かけたのだけれど、その後姿とはあまりに違う正面からの印象に、戸惑ったのは1分にも満たない短い時間だった。
食えない人なのは、よく分かっているつもりだ。
「美少年、二葉亭四迷って小説家は知ってる?」
「会ったことはありませんが」
「はは、いいね。それ、ニコルソンを思い出す。俺も二葉亭さんに会ったことは無いや」
「
さん、まだ二十歳になったばかりですからね」
“ニコルソン”が何を示すのかは僕には分からなかったけれど、どうやら彼のツボに的確に嵌った様子で、しばらくの間それは楽しそうに「会ったことない、ね」と口の中で繰り返していた。
持っていた煙草が短くなって流石に諦めたらしく――随分ギリギリまで吸っていた――先を地面に押し付けながら、彼の思考は漸くニコルソンさんから二葉亭さんへと戻ってきた。
「昔はさ、女性がストレートに『愛してる』だの『好きです』だの言うと教養のない下品な人間だと思われたんだって」
しかし、つい今し方まで独り言を言っていた口で突然に話し始めるものだから、僕は一瞬相槌を打つのが遅れてしまった。頭の回転は遅い方ではないと自負しているので、それは会話のテンポとして支障ない程度だったとは思うのだけれど。
「言わぬが花、という日本人らしい考えですね」
「まったくね。分からないではないけど、この風習、翻訳家にはたいそう厳しかったってわけ。外国ではそういう愛情表現は別に珍しいことではなかったからさ、小説の中に女性の台詞として出てくる出てくる」
「なるほど」
「で、二葉亭さんの話なんだけど。トゥルゲーネフ原作の小説の翻訳をするときに出てきたんだな、英語で言うところの『I
love you.』って台詞が」
次の煙草を取り出してそれが最後の一本であったことを確認した彼は、他人と比べて圧倒的に短い吸殻を箱の中に押し込むと、続けてポケットからライターを取り出して火をつけた。
話し相手としてはどうか分からないが、聞き手としてはまずまずの態度で、僕は話の続きを待つ。
「さぁ困った二葉亭さんは、二日二晩考え抜いて……なんて訳したと思う?」
やはり楽しげな視線に問われて考える。
『I love you.』
率直で奇を衒わない、“合理的”な言葉だと思った。
それを『愛』と訳すことで、僕らは何かを手に入れただろうか。
それを『愛』と定義づけることが、僕らは本当に出来たのだろうか。
曖昧さが付き纏ってそれはより一層、難解さを増しただけのような気が、する。
「見当も、つきませんね」
正直にそう答えると、彼は満面の笑みを浮かべて、「考えてるときの美少年、男前度1割り増し&子供らしさ2割り増しだったぜー。眼福眼福」と茶化した――…のではなく、もしかすると至って真面目なのかもしれないと思うと僕は些か不安だった――後で、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
くだらない前振りとしてのそんな仕種も、きっと病のように彼は止める事ができないのだろう、と思った僕は、自分で言うのも何だが子供らしくない子供なのだと思う。
彼が「2割り増したと」と言った裏側をこんな風に拾い上げることを子供はしない。
僕が出口を失いかけたところで――失ったってたいした損害は思いつかないけれど――、
さんは謀ったように笑顔の質を変容させた。
骨ばった人差し指と中指の間から手前に覗くフィルター部分を、親指でついと弾いて、頬杖。
「彼はこう訳したんだよ、」
煙草の先端を染める火の赤が小さく跳ね、息衝くように揺らめく。
「『死んでも可い』」
パサパサに渇いた髪は冬の風に煽られて簡単に彼の目を隠してしまったが、形の良い薄い唇が美しく弧を描いていたので、あまり関係は無かった。
「なかなか壮絶だろ?」
こちらを見ない横顔は、遠くの電車の音を追うように真っ直ぐ前を向いている。
今は隠された視線もきっと、そちらを見据えているのだろう。
右手が持ち上がって、煙草を銜えるために一瞬だけ口元が覆われたのを僕が見届けたところで、
「やめとけよ」
そう続けられた忠告は、“謀ったように”低く落ち着いていた。
再び僕の視界に現れた彼の唇には、生まれてから一度も微笑など湛えたことがないかのように、先までの笑みが影も形も見られない。
その落差は尋常ではなかったが、僕はやはり何の感慨も抱くことは無かった。
奇妙な住人揃いのこのアパートでも、決して埋もれない奇人と言って差し支えないであろうこの人は、何を思って僕にこんな話をしたのだろうかと、ただそれだけが疑問だった。
そう内心のみで思っていたつもりだったけれど、どうやら怪訝そうな顔をしていたらしい。
さんは手に持っていた煙草を口に銜えると、車止めのコンクリートから立ち上がりながら補足した。
「これはあくまで『愛』を表現するための言葉だ。それで本当に彼女は死んでしまったわけじゃあない。真実をついていたかもしれなけれど、それは事実じゃない」
真剣な声が似合わないとは言わせない力を、彼は持っていた。
「覚えとけ、萌太。事実にすることで真実が変容する可能性があることを」
けれど僕はゆっくりと顎を引いて、今は始点が僕よりも上になった彼の視線を追った。
「そのときが来たら、或はそれも含めて『愛』と呼べるかもしれませんよ」
“そのとき”が何であるのか、未だ辿り着かず、応えも答えも手に無い僕には分からないけれど、それは確かな自信として、そして彼を裏切る予感として僕の中に沈殿していた。
当然の如くそれは気持ちの良いものではなかったけれど、彼が「違う」と言ったものは、確かにその中に紛れているのだ。
立ち上がれば僕よりも頭一つ分高い位置にある彼の顔が色を失っているのを見て、僕は其処で漸く陽が沈みきってしまったことに気付いた。
病室のベッドの上は、まだ残暑が厳しい気候の中にあっても――冷房の所為ではなく――ひやりと酷く冷たかった。
排他的なそのシーツに上体を起こした戯言遣いの前で、アンティークゴールドに染め直された髪を弄りながら、
は左手で持った空の煙草の箱を見つめている。
視線は何も入っていない箱の中を捉えたまま、ぽつりと一言、おそらく限りなく独り言に適した質感であろう声を発した。
「美少年、死んじゃったって、」
「はい」
「だからやめとけって言ったのに」
後半の台詞は、室内の人物に向けてのものではないと直ぐに戯言遣いに気付かせた。
遠くでガタガタと電車の走っていく音がする。
「いの助、」
ふいと上げられた
の面は、午後の日差しとそれを遮るブラインドに二分されて色彩が無い。
吸い込まれそうな沈黙を経て、彼は言った。
「あれが彼の心臓の音だよ」
アトガキ
叶さんに危うく萌え殺されるところでしたゼーハー
ちょ 待っ 叶さん私これから電車がガタゴトいうたびに「あれが萌太くんの心臓の音…!」てなりますよ確実に不審者ですよ
あかん私真面目にそのうち萌太くんに殺される(真顔)
や も ホントにねなんていうか
どうもありがとうございましたああああああああ!!
この気持ちを最大フォント太字にして伝えようかとも血迷いましたけど止めておきます作品の雰囲気壊れまくっちゃいますしね!
叶さんの文才には毎回驚かされるばかりです こんな素敵な萌太くんに出会えてほんと幸せです。泣けます(いや泣かれてもな)
PS 叶さんすんません 主人公の名前変えてしまいました!もともと「立木」ってなってましたが…ええと…すんません羞恥心の方がですね…デットラインすれすれでですね…?
だって駄目なんですYO脳内で萌太くんに名前呼ばれただけで管理人は「おうhsふぃうhがdkljhうぇgfydぐs!」ってなっ…(馬鹿だろ)
萌太くんを前科者にするわけにはいかないのでこういう措置をとらせていただきました…だって萌太くんが!(五月蠅いよ)